幕 末から明治にかけてインド藍が横浜港に輸入され始め、やがて日本国内の藍の産地は低迷し始めます。
ヨーロッパでははやくも中世末期、13~16世紀にはイタリアの商人たちによって、タイセイ(ウォード:大青)より10倍も強力で価格も3、40倍高いインド藍を輸入します。藍生産地の王国や都市当局は長い間抵抗しますが、容易なことではなく17世紀中葉にはタイセイは衰退し、消滅します。
日本の藍は江戸時代の鎖国により守られたとも考えられますが、阿波藍の品質の良さと着物を美術品と同じように捉える美意識の高かさにも守られました。それも貴族や皇族など支配層によってだけではなく、庶民の思いがそうさせたのです。全国展開していた阿波藍は西日本の着物産地にシフトすることで大正時代までは残ります。その後はインド藍よりも強力な合成藍、硫化染料の輸入が始まり、多くの紺屋にとって安価で利便性もよく、生産性が高いことで使用されほぼ衰退することになります。
(注)印度マドラス(現:チェンナイ)
印度ジャバ(インドネシア・ジャバ)