明 治以降は青色を染めるいろいろな種類の染料が登場します。大方の人たちはどんな染料で染めた青なのかは知ることもなく、従来の植物染料由来の染料だと思っていたかも知れません。流行に敏感な詩人や文学者が「靛藍」あるいは「藍靛」をいち早く使っているのを見ると、その後続く舶来品の流行を訴える力と同じようです。
絶えず新しいものが流入してくると、そのものを現す言葉の定義がなされないまま使われ,定着してしまいます。日本の藍にとって僅かながらも残ってしまったことで、大変複雑な言葉遊びがこれから長い間,そして今も続くことになります。昭和41年(1966)に徳島県藍作付面積が4ヘクタールとなったとき日本の藍の生産は最低になりますが、存続を願う人たちの尽力で20ヘクタール前後まで増えます。最盛期の明治36年(1903)全国藍作付面積は36.412ヘクタールなので当時の0.00054%の生産ということです。
昭和3年工業化の進んだ化学染料による織物と植物染料を使った手織物との違いを区別するために、山崎斌は第1回「草木染手織復興展覧会」を開催しました。(参考:昭和5年全国藍作付面積523ha.最盛期の0.014%)
この頃から柳宗悦などによって古の地域生産の織物への再評価が高まり、天然染料を使うことを指しての名称がそれぞれの関係者によって名付けられます。
「草木染」 山崎斌 作家 評論家 染織家
「染料植物」 白井光太郎 植物研究者
「和染」 後藤捷一 染織書誌学者
「本染」 上村六郎 上代染織史学者
「古代植物染」 後藤博山 染織家
「草根花木皮染」松本宗久 染織研究者
「天然染料」 前田雨城 吉岡常雄 木村光雄
産業であった藍染料も昭和になると主観的な定義のなか、狭い範囲で関係者諸子の情報が言葉優勢に伝授され、言葉の指す定義をより複雑にします。