久 留米絣、伊予絣に続き生まれた備後絣は富田久三郎が文久元年(1861)独自に考案した文久絣が基になったといわれます。『ヒストリー 日本のジーンズ』日本繊維新聞社発行(2006年)の記事「備中・備後紀行」のなかで逸話として、久三郎の不在時に来訪した阿波の某氏が絹織の「浮織」の技法を記した書を残し、久三郎はそれを研究して綿織物に応用し原糸を糸で括ることで、井桁文様を作りだすことに成功したと書かれていました。大変興味深い内容でいろいろ想像してしまいました。阿波の某氏とは藍商人のことだと思いますし、文久絣は始めから輸入紡績糸を使用して絣の生産を始めましたので、藍玉をたくさん売るため商品開発の助言をしたのではないかと思いました。文久絣の誕生は他の説が一般的なので信憑性はわかりませんが、阿波の藍商人の商売方法の一端を見るようでした。売場株を持っている藍商人の特長は持船で「のこぎり商法」といわれる行き帰りの商売をしていました。葉藍作りから蒅・藍玉製造まで一貫して行い、藍玉を自ら全国各地の売場に販売し、さらに売場先の国産品を買い入れて京都、大坂、藩内へと交易までも生業とする総合商社のような活動をしています。
明治になって備後絣と名付け大阪市場伊藤忠商店に200反を販売し、明治13年には年産11.5万反、44年33万反、昭和元年82万反と生産を増やし、その後は手織機から足踏機、8年には力織機の導入で10年には130万反まで生産しますが、戦争をはさみ衣料品統制規則が廃止されるまで停止します。27年には年産170万反、30年220万反、35年には330万反の最盛期を迎え全国生産高の7割を占めるまでに成長しました。
昭和30年三井化学工業株式会社と「三井インヂコ」の一括購入契約を結び、翌年には絣木綿織物「備後絣」の文字の商標登録が完了しました。昭和34年(1959)井伏鱒二『木靴の山』のなかで乙女の着る備後絣もほとんどが合成藍で染めた紺絣です。