久 留米絣は寛政11年(1799)当時産業の少なかった久留米近郊に始まり、文化5年(1808)には久留米藩に玉藍方が設置され、藍栽培の増大が図られます。栽培地は御井、山本、御原、竹野、三潴の各郡村で水縄(耳納)山麓にひろがる筑後川中流域です。筑後藍は文化年間中に他国や大坂、江戸へと移出しています。
資料に残る阿波藍の九州への移出は、享保11年(1726)薩摩、14年筑前、肥前の各地に販売を始めています。藩内の筑後藍を移出できるほど栽培していても、阿波藍を文久元年(1861)に1795俵移入していることから、久留米絣の生産に阿波藍が必要とされたと思われます。江戸末期には久留米絣の生産は4万反ほどになり、藍栽培もますます盛んになります。
明治時代は久留米地方一帯が久留米絣の一大産業地となります。明治10年着実に生産が増大するなか、新しい染料による粗製乱造で信用を失ったことから、販売業者によって販売と染色の責任を明確にするための組織がつくられます。久留米絣の染色に地藍3分、阿波藍7分を用いることとし、これ以外の染料を使うことを禁じたのでした。そして筑後藍の品質向上のため徳島県に伝習生を派遣して、久留米絣の理念を守ります。
明治13年に小柄の絣緯糸が織貫の方法で容易に生産され、37年には絣糸製造機が発明され経糸も容易に作れるようになりました。さらに42年には中柄・小中柄の糸も機械括りができて量産が容易になりました。明治19年46万反、28年85万反、40年113万反、大正期100~120万反、最盛期の昭和5-6年には年産250万反になります。
明治中期以降インド藍だけではなく、化学染料が様々な形で染色業界に浸透しますが、久留米絣は組合によって厳重に天然藍の保護と染色の美しさ、堅牢度を守り、品質と信用を維持したのです。それでも40年以降は合成藍の出現によって、天然藍に合成藍を混合して染める技術が導入されます。染め回数の半減と着色力もよいことから、労力でも材料費でも生産効率がよい混合建(割建)が昭和40年頃まで用いられることになります。そして昭和37年頃よりナフトール染料へと転換します。