藍 商人の中には全国の売場へ出かけることも多いことから、遊里での「大尽遊び」で有名になった人たちもいたり、浄瑠璃『伊勢音頭恋寝刃』のモデルにされたこともありました。徳島の芸事好きはこの時代の影響があったかも知れません。天明期(1781–88)ごろ大流行した狂歌の門人として遠藤宇治右衛門が藍商人の経済力を背景に狂言師として活躍しました。
遠藤家は阿波藍商としては初期の寛文期(1661–73)ごろから活動をしていました。関東売藍商として阿波屋吉右衛門と名乗り、享保4年(1719)の関東売36人の中にも指定されています。本八丁堀三丁目に出店を持ち江戸•武蔵を売場にしていました。文政7年(1824)刊行の『江戸買物独案内』に藍玉問屋として掲載されていますが、文政12年(1829)江戸の大火で八丁堀の店が類焼したあと、天保15年(1844)の株仲間解放令後の史料の中には阿波屋吉右衛門の名は見られなくなり、関東売廃業以降の藍商としての経歴はほとんど伝わっていません。
遠藤宇治右衛門は20歳のころから古典に親しみ和歌を詠むことをはじめ、文化7年(1810)29歳のとき六樹園宿屋飯盛(石川雅望)に入門します。石川雅望の居宅と江戸店が近隣であったともいわれていますが、本格的に文学活動をはじめ、当時一流だった六樹園宿屋飯盛と共に活動ができるほどになりました。六樹園の師でもある四方赤良(太田蜀山人)と面識ができて、平田篤胤•式亭三馬•十返舎一九•滝沢馬琴•菊池五山などとも交流し交遊を広げていきます。
宇治右衛門は六々園春足の名で『白痴物語』という見聞集や全国から募集した狂歌『猿蟹物語』を出版しています。阿波に六樹園を呼び阿波狂歌壇の指導をするなど、阿波の名所を巡歴した記録が軸物として残されています。
六々園春足の晩年期は阿波国内の豪商農の間で俳諧•狂歌を趣味、道楽とすることが流行しました。藍の生産量も拡大した文政•天保期は狂歌の全盛期で、阿波藍の隆盛は商人たちの諸国への巡回の旅でもあり、他藩の人たちとの交流による文化的現象が盛んに行われていたのでした。