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藍商人-❼ 鈴屋小左衛門

波藍を薩摩へ販売し始めたことを史料で確認できるのは享保11年(1726)からで、この頃から薩摩絣の生産が薩摩で始り、宮島浦•別宮浦(徳島市川内町)などの廻船を所有する藍商人が進出しました。阿波藍•備中繰綿•大坂仕入れの小間物を移出して、薩摩の国産品を大坂市場に移入する交易をしていました。

 

享保14年(1729)宮島浦の鈴屋•坂東茂左衛門が筑前•肥前の各地に、阿波藍を販売したことは藍玉売掛金の史料により確認でき、元文期(1736–41)からは薩摩•大隅•日向を中心に営業活動を行っています。薩摩へ阿波藍•刈安•藍鑞•硝煙•繰綿•足袋•雪駄•キセル•昆布などを移出し、黒砂糖•生蠟•明礬•鬱金•荏胡麻•菜種•煙草•大豆•小麦•水銀•樟脳などを大坂へ移入しました。鈴屋は18世紀後半から19世紀初めの時代に多大な資本蓄積を行い、阿波藍商人の中でも得意な存在でした。阿波を本拠に大坂–中国–九州にまたがる広大な地域に出店を置き、廻船が寄港する各地の商人に資本を貸付し系列下にすることで、商権を確立し拡大していきました。薩摩•京都の商人と協力して琉球•大島諸島で生産される「鬱金」を京•大坂、上方での完全独占販売体系をつくり上げてもいました。鈴屋は「銀主」として毎年3万斤(7500両)の売上高となる数量を独占的に買い占めて上方に輸送していたといわれます。寛政12年(1800)に藍で蓄積した商業資本の一部を住吉新田•豊岡新田の開発事業に投下し、質地地主としての基盤をつくります。

 

文化11年(1814)薩摩藩は国内で生産され始めた藍を専売品目とし、阿波藍を薩摩•大隅から追放します。加えて文政10年(1827)に実施した藩制改革によって、黒砂糖•生蠟•菜種•胡麻などの生産から流通まで藩が掌握し、他国の商人の取扱いを封鎖しました。「長防阿州辺の船」は完全に駆逐され活躍の場を失います。

 

 

幕末•維新期の政治•社会•経済などあらゆる分野で大変革が進む激動のなか、薩摩•大隅への阿波藍販売を50年ぶりに復活させます。物価高騰も価格値上げで無難に乗り切り経営規模の拡大をします。明治39年に阿波藍の急速な衰退が始まる直前に、約200年守り続けた藍業部門を廃業し、鈴屋は地主経営と大量の有価証券所有による配当金収入や資金運用の経営を始めます。この形態が阿波藍衰退後の典型的な商資本の動向であったといわれています。