褐 色は「かちいろ•かちんいろ」と呼ばれ、紺よりさらに濃く黒く見えるほど暗い藍染の色です。平安時代から褐色の名称は見られ、『宇津保物語』『梁塵秘抄』の中に「かちの衣着たる」「飾磨にそむるかちの衣着む」と書かれています。古くは中将•少将も着用しましたが、野外に行幸するときに随従した者が着た衣服で、後には高官などを警護する武官や兵士が着るようになります。「青褐」の色名は正倉院文書の中にもみられ、延喜式•弾正台の中にも随従者の服の色として記されています。「褐返し」という別の色で染めた上に藍で染めた色を表す表記も平安時代の書物にあります。
「褐色」の色相は多くの解釈があって未だにはっきりした説にはなっていません。藍を濃く染めるために、生地を「搗(か)つ」=搗(つ)くことで染法から名付けたともいわれています。現代では褐色「かっしょく」と音読みして色相は茶色や焦茶色をさしますが、中国から伝来した初めは現代と同じく茶色を意味していたものと思われます。鎌倉時代の武士に広く用いられるようになると、褐=勝に結び付けられて藍で染めた濃い紺色が直垂や鎧•縅などに使われ、褐色•勝色と表記された資料が多く残ります。
江戸時代になると「かちん色」「かちん染」と呼ばれ、『貞丈雑記』(~1784執筆1843刊行)伊勢貞丈には「かちん色と云は黒き色を云。古異国より褐布と云物渡しけり。其色黒き色なりし故黒色をかち色ともかつ色とも云。……褐布は今の羅紗の類にて毛織也。……俗にかちん色と云。」『安齋随筆』伊勢貞丈(1717–84)には「西土の書にはいずれにしても黒色を兼ねたる色を何褐色と云ふ。たとへば、トビ色を素褐色、アヰミル茶を青褐色、キカラ茶を貴褐色といふ。皆黒色を兼ねたる色なり…」随筆『神代余波』(1847)斎藤彦麿の中では「かち色といふも、極上紺の濃く黒くなりたる色也。さるは近年は空色と浅黄との間にて匂ひやかならぬをいへり。さる物にあらず。紺に染て臼にてつき又そめて、𣇃(つ)きいくたびもいくたびもしかれば黒くなりて赤き光り出る物なり」と記されています。
明治になり軍服の用度の中に「褐布」が見られます。茶褐布はカーキ色、紺褐布は濃紺色とし、羅紗であったので次第に茶褐絨•濃紺絨の表記が多くなりました。日露戦争時には再び「勝色」「軍勝(ぐんかつ)色」などとしての呼名が流行したそうです。
文化12年(1815)刊行の藩撰の地誌『阿波志』は各町村の役人に命じて、郡ごとの沿革や耕地•租税•寺社•古跡•産物を編纂している史料で、その中に板野郡撫養(鳴門市)の産物として「褐布撫養出」「韈(たび)亦撫養出以褐及草綿布製之」と書かれていますが、この鳴門産•褐布はどのようなものだったのでしょうか。
参考:「日本の伝統色」長崎盛輝 京都書院