万 葉集では「韓藍」は「辛藍」「鶏冠草」などとも書かれていて4首詠われています。「古くは色を染める材料、即ち染料はすべて「あゐ」であり、「韓あゐ」「山あゐ」「呉あゐ」或いは「紅草」ができるから「阿為山」と名付けたという古い記録(筆者補足:播磨国風土記)などすべてこれを物語っている」と上村六郎氏は書いていますが、藍のことになると解釈が少し強引な印象があります。茜の染料の説明は理学博士として、成分の分析もして西洋茜と日本茜の染色方法の違いを説明しているのに、藍/あゐに関しての解釈は安易な結論に終止していて、その後50年以上のあいだ異義もなく、多くの人がこの解釈を踏襲しています。
吾屋戸尓 韓藍<種>生之雖干 不懲而亦毛 将蒔登曽念(巻3-384)山部赤人
秋去者 影毛将為跡 吾蒔之 韓藍之花乎 誰採家牟(巻7-1362)
戀日之 氣長有者 三苑圃能 辛藍花之 色出尓来(巻10-2278)
隠庭 戀而死鞆 三苑原之 鶏冠草花乃 色二出目八方(巻11-2784)
韓藍はケイトウ(鶏頭)であるといわれ、原産地のインドから中国、朝鮮半島を経由して天平時代に伝わったといわれています。平安時代に書かれた『本草和名』鶏冠草(けいかんそう)の和名は加良阿為(からあい)とされていることからです。歌の内容から見て韓藍の花は、秋に咲く染まりやすい植物だと考えられます。
平安時代の和歌には「韓藍」の名は見えなくなり、再び中世になって取り上げられるようになります。奇妙なことに韓藍の色を青色としている歌も見えるようになります。
わが恋はやまとにはあらぬ韓藍のやしほの衣ふかくそめてき(続古今集 九条良経)
竜田川やまとにはあれど韓藍の色そめわたる春の青柳(壬二集 藤原家隆)
現在見られるケイトウは、江戸時代になってからの花弁を鑑賞する園芸植物です。花軸が鶏の鶏冠状になっているから、鶏冠草と呼ばれていたことが文字からも確認できます。韓藍という名前は摺染めに用いられたことに由来するともいい、赤い花を絞って染料にしたと思われますが、赤い色水はつくれますが染まることはありません。一晩で色は無くなり、茶色い染みが残るだけです。原種が現在のケイトウと違うとしても、薬用の記載はその後もありますが、平安時代には染料としての実用は廃れています。中世以降は紅色、青色を染める花として詠まれていますが、万葉集で詠まれた韓藍はやはりケイトウだったのでしょうか。