縹 は「はなだ」と読み、持統天皇4年(690)に初めて色名が確認できます。最初の服色制度として冠位十二階が施行され、これまで使われていた位色の「青の大小」から「深縹•浅縹」に表記が変わります。この時代の青の色名と色の解釈はまだ推定のままですが、後の延喜式縫殿寮には縹が深•中•次•浅の4段階に分けられ、色を得る為の材料用度からも「縹」は藍で染めた純粋な青色です。
今では余り馴染みのない漢字「縹」は中国の後漢時代に文字の意味を説いた『釈名』に「縹ハ漂ノ猶シ。縹ハ浅青色也」と『説文解字』にも「帛の青白色なるものなり」と書かれているように淡い青色でした。奈良時代は秦漢の影響を大いに受入れていますので、日本で「はなだ」と呼ばれていた色が、中国では「縹」と呼ばれている色名•色相と染法だった為、文字だけ用いられたと考察されています。そして日本固有の「はなだ」と呼ばれていた浅青色の染料は「鴨頭草」だと考察されています。公文書の中には「縹」の字はその後も散見しますが、平仮名が現れてからは源氏物語•蜻蛉日記の中に「あさ花だ」と書かれているように「はなだ•花だ」と同じ表音で表記されることが多くなります。室町時代になると古今連談集などには「はなだ」も見られますが、「花だ色」「花色」という表記も見られるようになります。
江戸時代になって藍の生産が増え、木綿の着物が市井の中に広まるとともに「花色木綿」「花色小袖」「花色羽織」「花色小紋」「花色繻子」と盛んに用いられ『好色一代男』『新色五巻書』『洒落本•辰巳之園』など多くの書物に藍で染めた色が「花色」の表記で書かれています。『書言字考節用集』六巻では「縹色ハナダイロ 花田色ハナダイロ」と同色を意味するように書かれています。江戸時代の人口80%程を占める農民の衣類には、木綿•麻藍染無地•縞、衿•袖口は花色•浅黄•萌黄の木綿無地というように厳しい制約がありました。庄屋には紬や絹を認める事もありましたが、色はほとんど似たようなもので茶の堅魚縞が認められていました。多くの人たちが着用している藍染の布帛類の色は、藍色とは呼ばれていませんでした。
江戸時代までは花田色や浅葱色が藍の染料だけで染めた色だと考えていたようです。現代では藍で染めた色といえば藍色を示し、書籍やメディアや人々の間で広く使われています。
参考:「日本の伝統色」長崎盛輝 京都書院