水 色が平安時代に用いられるようになる起こりは、『万葉集』で見られる「水縹の帯」からきているといわれています。奈良時代は藍で染めた色の濃淡は「縹」を基に、深•中•次•浅の4段階で表し「深縹」などと用いられていましたので、水縹はその後に生じたと思われます。律令時代に導入された漢字と概念は、日本人には馴染みの悪いものだったのかも知れません。「水色」「空色」など少しずつ自分の感覚に合う新しい表現を漢字で表すようになり、藍で染めた微妙な色の相違にも新しい言葉がつくられて興味深いです。
11世紀後半ごろの王朝物語『夜の寝覚』に「こくうすく水色なるを下にかさねて」、歴史物語『栄花物語』には「大海の摺裳、水の色あざやかになどして」と平安文学の中で使われるようになります。室町時代の軍記物語『太平記』にも「水色の厚総の鞦(しりがい)に」と見られ色名は貴族から武家へも浸透します。江戸時代には藍の栽培が奨励されると浅葱色とともに、町人の着物の色に水色が愛用され『御ひいながた』寛文6年(1666)発刊の小袖地色にも見られます。西鶴の浮世草子『好色一代男』天和2年(1682)の中にも「水色のきぬ帷子(かたびら)に、とも糸にさいわい菱をかすかに縫せ」と夏の衣装についての表現もあり、延宝–天和期(1673–84)には水色の流行があったようです。
水色は水の色を模した薄い緑みの青です。似た色で「水浅葱」という色もあり、延喜式の「浅縹」「薄縹」の色名も見かけます。微妙な違いを現在はマンセルの色相記号で理解できますが、当時はどの位意識して使い分けていたのでしょうか。水浅葱は浅葱色を更に薄くした色で、水色がからせた色とのことです。江戸時代に水浅葱は多く使われていて、雑俳•鳥おどし には「是非ともに•京へやらしゃれ水浅葱」(1701)講談本•当風辻談義の中に「町人の葬礼に水浅葱の上下着るを笑ひ」(1753)浄瑠璃•国性爺合戦「水浅葱のもも引しめてはおりきて」(1715初演)と少し意味のある色のようです。『俳風柳多留』に「おやぶんは水浅葱迄着た男」という川柳があり、囚人服が水浅葱だったことからです。天明4年(1784)『女萬歳寶文庫』に水浅葱の染法は常木/臭木(くさぎ)の実を煎じつめて染めると書かれていて、同様の染法を載せた書物類が江戸時代初期の頃から見られることから、藍草以外で得た青色も併用して使われていたと考えられます。
明治になっても水色•水浅葱の色は、二葉亭四迷•樋口一葉•泉鏡花•永井荷風•森鴎外•島崎藤村など文学者に多く使われました。
参考:「日本の伝統色」長崎盛輝 京都書院