奥 村家が藍屋嘉蔵として藍商活動を始めたのは17世紀中期ごろですが、六代嘉蔵が文化•文政時代(1804–30)に大坂売場株•玉師株を取得して藍商人としての基盤を固めました。急速に発展したのは幕末維新期に特権的藍商が経営を崩壊する動乱の中、九代嘉蔵のとき筑前•肥前売場株を取得し九州に進出をします。明治5年(1872)の玉師株•売場株廃止により藍の製造も販売も自由になったことで、6年には江戸深川町に東京支店を開設し相模•武蔵•甲斐•信濃•駿河も市場とします。
筑前•肥前市場には持船の「若宮丸」で阿波藍を移出し、筑前米•麦•菜種油•博多帯•久留米絣など諸産物を移入します。「若宮丸廻船規則」によると堂浦(鳴門市)の米田熊之助が沖船頭を勤め、本家の権限と沖船頭の裁量権を規定していて、廻船経営の内容が示されています。明治10年(1877)の西南戦争以後、14年の松方正義デフレ財政の時期に、所有農地を10町歩ほどから35町歩に急速に増やします。12年には酒造業を始め、20年には肥料店舗を開設して経営の多角化を進めます。東京支店にも肥料部を置き、北海道産の鯡粕•米穀•大豆•満州大豆粕を関東•東北地方に販売を始めます。インド藍、続いて化学染料輸入が主流となり、大量染色の普及が始まる前に肥料商として経営転換することで、近代的な企業経営へ切り替えることができました。時代の変動の中で拡大した奥村家の経営は、豊かな情報収集と情報の活用ですばやく時代に順応する柔軟性が優れていたといわれます。
太平洋戦争中の幾多の困難から戦後は奥村商店として営業を再開し、昭和25年に肥料の統制が撤廃されると肥料の取扱いを再開します。営業品目に農薬を加え、三井リッチ配合肥料特約店として関東•東北•山梨•静岡地区への販売を始めます。現在は製造部門を埼玉県岩槻市に持ち有機•無機配合肥料を製造•販売し、販売部門では肥料卸業者として、物資部門では農業用肥料以外の関連商品と健康食品•家庭園芸用品とやまか糸わかめの販売を行っています。
昭和62年に大藍商の豪壮な屋敷を板野郡藍住町に寄贈し、観光施設「藍の館」として公開しています。十数万点の奥村家文書と文化5年(1808)創建の母屋•土蔵•東門•奉公人部屋•西座敷•寝床(藍製造場)など13棟の建造物があり、奉公人部屋からは当時の労働者の厳しい環境が窺えます。各建造物の創建年代と工事の詳細や建築経費が記録された資料も保存されています。