明 治末期の阿波藍最盛期には、市中には少なくとも300軒の紺屋があったといわれています。しかし全国各地でインド藍、合成藍、化学染料が導入される大正10年には、紺屋の数は57軒になったと伝えられます。大正4年の徳島県の藍作面積は3,884町歩(ha)で藍作農家は836軒(大正6年)です。埼玉県での最盛期の栽培面積は維持していますが、市中の紺屋には化学染料が混在され、織業者300軒余りがしじら織と共に、阿波紺絣やその他の織物•服地などを相当量生産していました。化学染料の導入で刺激された染織業界は、近代産業へと脱皮を目指し藍製造業者を顧みなかったのは、すべての産業と名付けられるものに負わされた選択であったと思います。全国に販路を持つ藍製造業者と違って、徳島の織業者と紺屋は織物生産を産地として展開する機会をつくれず、昭和に入って紺屋は次第に市中から姿を消しました。
紺屋は戦中•戦後にわたる綿糸の不足や経済統制によってさらに転•廃業をよぎなくされ、終戦後の一時期には唯一軒を残すのみとなりました。そしてそれも天然染料の藍染ではなく、すべて化学染料によるもので市中の紺屋からは本来の藍染は全く姿を消してしまいました。全国藍作面積は昭和5年は523町歩、昭和16年は62町歩で、その内訳徳島県は255町歩、40町歩です。徳島で作られた藍は県外へ搬出されていました。
藍染の復活は、26年から30年にかけての阿波しじら織の復元を契機として、しじら織の復元に欠かせない藍染も共に復活しました。当時民芸運動の中心的存在であった柳宗悦をはじめ、芹沢銈介、バーナード•リーチ、外村吉之介といった人達を徳島に招聘し、しじら織の復元について意見を仰いだと伝えられています。しかしその試みも、徳島における藍染の復活に活力を与えるほどの進展をみせることはありませんでした。
染織技術も無形文化財の工芸技術の一分野として、昭和25年に文化財保護法によって制定され保護されることになりました。徳島県でのしじら織の復元や藍染の復活の試みも、国の政策に動向したものだったのでしょうか、創造性のある活動や現実を打破する提案は残されていません。藍の栽培面積は30年の37町歩(ha)から、40年には最盛期以後史上最低の4町歩となります。徳島県だけの問題ではなく、藍を使用していた全国の織業者•藍染業者の殆どがその現状を語ることはありませんでした。