伊藤洋一郎と出逢って間もなく話したことは、十七才のとき中国大陸で終戦を迎え、南京での捕虜収容所のことだった。わたしは父との確執から異常なほど戦前、戦中、戦後のことに関心をよせて本を読んだり、映画を見たり、人に話を訊いていた。そのとき訊いた話は思いがけないことが多かった。親しくなってからの印象は、戦前の教育を受け戦場を体験した人とは思えない姿だ。ひとつだけ日常で感じられたのは、毎晩机の上を整理し、着たものをきちんと畳み就寝することだった。七十才を過ぎたころから、日記を書き出し、それからこの手記を書きはじめた。どれほど、重く、心のなかで発酵していたのだろうか。
no-001
少年兵の手記 無意識の熱情から軍隊生活の不条理な価値観のもと 1944-46
はじめに
誇りと憂鬱
陸軍特別幹部候補生の㐧一期生として、松山航空隊の門をくぐったのは、旧制中学三年を修了した昭和一九年四月、十五才のことだった。
教育隊で三ヶ月の基礎訓練をおえたのち、三重県明野飛行学校分校に配属され、一式戦闘機・隼(はやぶさ)の整備訓練をうけ、二十年四月、京城飛行基地に転属のため単身朝鮮半島に渡った。京城基地で編成された特別攻撃隊の整備要員として特攻作戦に参加。北京をふりだしに中国各地の飛行基地を移動し、南京郊外の特攻基地で出撃命令を待つうち、二十年八月の終戦を迎えた。武装解除のあと約八ヶ月の収容所暮しを経て、二十一年四月帰国した。航空隊に入って丸二年が過ぎた十七才の春だった。
昭和四年の生まれだから、物心ついてから戦争の時代しか知らずに育った世代だ。昭和六年に満州事変。翌年には上海事変と、中国大陸では紛争が続いていた。八年、日本は国際連盟を脱退する。十二年、中国での動乱はついに日中戦争に発展。中国戦線は予想外に長期化し、国を挙げて、物心両面にわたる戦時体制が強化されていった。小学校の朝礼で校長は皇軍の快進撃を称え、銃後の小国民という言葉が生まれた。子供たちの心構えについて訓話した。首都南京の陥落には祝賀の提灯行列が、国をあげて盛大に行われ、大人たちの興奮に誘われた子供たちも行列に加わり、夜遅くまで万才を叫びながら練り歩いた。
中学一年になった十六年十二月、大東亜戦争(太平洋戦争)が開戦。緊迫した戦局のなかで、物資の統制・食糧不足と厳しい世相に重なって過ぎた。時代の流れに押されるように航空隊に志願した。当時の中学生にとって、軍隊は理想の世界だと信じて疑わなかった。航空隊に入ることは、大学進学に次いで憧れの進路のひとつでもあった。だが戦争の時代に育った世代にもかかわらず、軍隊生活の実情について情報は乏しく、まるで無知だった。軍隊経験のある父親をはじめ、周りの大人たちも教師たちも、口を閉ざして語ろうとしなかった。言論は厳しく抑圧され徹底した報道規制のなかで、強圧的なプロパガンダと粉飾されたスローガンだけが叫ばれる、軍事体制の支配するくらい時代だったと、後になって知ることになる。 (つづく)