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少年兵の手記 no-003

伊藤洋一郎と出逢って間もなく話したことは、十七才のとき中国大陸で終戦を迎え、南京での捕虜収容所のことだった。わたしは父との確執から異常なほど戦前、戦中、戦後のことに関心をよせて本を読んだり、映画を見たり、人に話を訊いていた。そのとき訊いた話は思いがけないことが多かった。親しくなってからの印象は、戦前の教育を受け戦場を体験した人とは思えない姿だ。ひとつだけ日常で感じられたのは、毎晩机の上を整理し、着たものをきちんと畳み就寝することだった。七十才を過ぎたころから、日記を書き出し、それからこの手記を書きはじめた。どれほど、重く、心のなかで発酵していたのだろうか。

no-003

少年兵の手記 無意識の熱情から軍隊生活の不条理な価値観のもと 1944-46

(つづき)

 大戦中、海外に派兵された将兵の総数は二百万を超え、中国戦線だけでも九十万人と伝えられていた。戦場に臨んだ少年兵の数がどれほどあったのか、知りようはないが、数多くの少年兵が様々な環境の中で、異なった任務につき、生命を賭けた体験のなかでかけがえのない教訓を学びとっていった。軍事体制下での神格化された粉飾された長いプロパガンダの時代が、未成熟な少年たちを戦場に駆り立てたのだとしても、厳しい状況におかれた少年の無垢な感受性は、戦場で出会った勇気や自己犠牲に心を揺さぶられ、或いは悲しみの深さをとおして、傷付きながらも自らの意志で、自分のための誇りを見出していったのだろう。 

 いま戦争の悲惨と罪だけが声高く叫ばれる時代だが、声を揃えての反戦・平和の合唱にも、何かが抜け落ちているような気がしてならない。ただそれだけでいいのかと。私たちはあの長く苦しかった戦争の経験から、大切なものを本当に学びとったのだろうかと。長い戦争の時代と敗戦をとおして露呈した、組織の歪みと体制の欠陥、さらに理想の欠陥という吾国の不幸な体質は、ひいては民族の体質そのものだといえなくもない。

 六十年の歳月を隔てていまあらためて問い直してみる。十六才の少年兵の心を満たしたあの誇りは、またあの憂鬱は、戦争の時代の、戦場だけの幻影に過ぎなかったのだろうかと。

 

    忘れ得ぬ人々

 狂気と残酷の支配する戦争という世界の中で、あるいは狂気の世界であるだけになお強く、人は無意識のうちに希望と優しさを求める。時代の波に翻弄され、不信感に満ち、層は飢えた迷い犬のように反抗心をつのらせた。そんな少年兵に労わりの手を差しのべ、慰さめと希望を与えて呉れた人たちの温かさは忘れられない。なかでも異郷で出合った異国の人たちの思い出は、心に強く残っている。

 終戦間近い朝鮮半島に蜂起した激しい抗日運動を知ったのは、戦後数年を経てのことだったが、それまで知る機会のなかった時代の背景を知ったとき、すぐ思い浮かべたのは、京城郊外のさびれた貧しい村落の、あの灰色の風景と、そしてあのひたむきな青年の姿だった。あの情熱は何に向けられたものだったのだろうかと。

 南京攻略にまつわる日本軍の残虐行為、いわゆる南京事件を事実として教えられたのは、さらに数年もあとのことだ。南京陥落は昭和十二年、終戦の八年前の出来事だ。仲良くしてくれたクリーニング店の姉妹の、妹はまだ幼かったとしても、姉娘はすでに十才を過ぎていたのだ。彼女はどんな恐怖の記憶と痛みを心に残していたのだろう。いつも無表情に豆を煎ってくれた、商店街のあの大男の胸には、八年前の悲劇の記憶が深く刻み込まれていたのだろうか。

 

 そして誰よりも、終戦直後に二十才の青春を散らせた、特攻隊員Y軍曹。彼は武装解除の当日に隼とともに壮絶な死を選んだ。いつも穏やかな表情をくずさず、寛容で常に冷静だった彼の胸を灼きつくしたものは、なんだったのだろう。すでに六十年の歳月が過ぎたが彼と共有した、少年兵の誇りは色あせることはないだろう。そしてあの憂鬱もまた、消え去ることはない。                (つづく)