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少年兵の手記 no-004 松山第三航空教育隊

伊藤洋一郎と出逢って間もなく話したことは、十七才のとき中国大陸で終戦を迎え、南京での捕虜収容所のことだった。わたしは父との確執から異常なほど戦前、戦中、戦後のことに関心をよせて本を読んだり、映画を見たり、人に話を訊いていた。そのとき訊いた話は思いがけないことが多かった。親しくなってからの印象は、戦前の教育を受け戦場を体験した人とは思えない姿だ。ひとつだけ日常で感じられたのは、毎晩机の上を整理し、着たものをきちんと畳み就寝することだった。七十才を過ぎたころから、日記を書き出し、それからこの手記を書きはじめた。どれほど、重く、心のなかで発酵していたのだろうか。

 

no-004

少年兵の手記 無意識の熱情から軍隊生活の不条理な価値観のもと 1944-46

(つづき)

 

    松山教育隊     昭和十九年四月

 パンツ一枚になった裸の少年たちが長い列をつくって、身体検査の順番を待っていた。少年たちといっても、上は十九才から下は十五才と年齢の差は大きい。体型も不揃いで、子供染みた童顔から大人びた顔まで様々だが、一様に不安気な強張った表情を浮かべている。すでに試験に合格し採用通知を受け取った連中なのだが、これから入隊前の最終の身体検査を受けるのだ。四月だというのにひどく寒い日だった。軍医の問診がすむとあとは肛門の検査になる。受験以来慣れているので要領はいい。パンツを膝まで下ろして両足を開き、うしろ向きに尻を突き出す。合格の声をきいて、フーッと貯めていた息を吐き出す。別の列に並んで今度は衣服の支給をうける。不合格を告げられて、愕然として抗議の声をあげる者、黙って悄然と立ちつくす少年もいる。同情とともに、羨望にも似た何かが頭の中をよぎった。それに気付いて一瞬うろたえた。正直にいって少し逃げ腰になっていた。部屋中に漂う陰気な気配、暗い緊張感、冷やかで無表情な係官、おびえた少年の群れ、すべて予想を裏切って暗いのだ。戦争の時代に育ち軍隊は理想の世界だと信じてきた。ましてここは憧れの航空隊なのだ。この陰鬱な雰囲気は予想もしないものだった。父親をはじめ周りの大人たちから、折にふれて嗅ぎとった軍隊生活の僅かな知識のなかに、この不安は含まれていなかった。合格の安堵感のあとに、見知らぬ世界に足を踏み入れた不安と恐れが、急に足元からはいあがってきた。思わず支給品の衣類を抱えたままその場に立竦んだ。「ぼやぼやすんな!」鋭い叱声を浴びせられて我にかえり、みんなが同じ方向に駆けているのをみて、慌てて跡を追う。隣り合った部屋が混みあって服を着る。はじめて身に着ける軍服だが感慨も何もあったものではない。それからあとはもう夢中だった。係官が名簿を読み上げて所属先を支持している。まごついてウロウロする少年たちは追いたてられ、駆り集められて、所属の小隊に配分され、さらに班別に分けられ、待ち構えていた担当の教育兵に引率されて宿舎に向かった。

 

 

 陸軍特別幹部候補生の㐧一期生として、松山航空隊に入隊したのは、旧制中学校三年を修了した十五才の春だった。松山航空隊は松山市の中心部・堀内にあり、直ぐうしろに松山城がある。航空隊の広大な敷地の一隅に教育隊の宿舎があった。扉を大きく開いた営門の衛兵所の前には、着剣した銃を手に衛兵が立っている。門から真っすぐ広い道路が奥まで伸び、その先は広場につながっている。演習場として使われる広場に面して、木造二階建の兵舎が道路をはさんで横に並んでいる。それぞれの兵舎のうしろに同じ大きさの兵舎が続き、各兵舎の間を幅の広い道路が高市場に走っていた。

                                                                          (つづく)