· 

浮世絵の中の藍染-東海道五拾三次

「東海道五拾三次」安藤(歌川)広重(1797-1858)を考慮して、社会の人々の間でどのように藍染衣類が普及しているのかを検討した資料があります。『日本の藍-伝承と想像』2002年日本放送出版協会発行・天野雅敏•平岡ひさよ「近世の藍と藍染の普及」にて、55枚の浮世絵に描かれている人物や風景から天保年間(1830–44)の藍染の普及度を調べています。五十三次の街道の中に当時の衣類を身に着け生活する人々=登場人物は953人に上り、その内衣類の色や種類を判別することが出来た人物は642人でした。藍の普及度を着物•羽織•袴•股引•脚絆•合羽など、肌を覆う面積を基準に点数化しました。着物を1点として、羽織0.5点、半纏0.5点、脚絆0.3点といった具合です。藍染を考慮することから、緑など藍も関わる色や縞などは係数の1/2とし、型染めなど占める面積の少ないものは1/5としています。

 

〈1.日本橋•朝の景〉から〈55.京都•三条大橋〉までの宿場名と衣料判別可能人数、50%以上•50%以下•0%藍染着用人数、何かしらの藍染着用の人の比率、藍染を身に着けていない人の比率、総衣類点数、藍染衣類点数という項目で念入りに調べています。衣類の判別可能な642人の衣類の総点数は746.6点で、藍染を使用している衣類の点数は304.87点となっています。登場人物の64%は何かしらの藍染を身に着け、「東海道五拾三次」の藍染の普及率は着物に換算して衣類全体の41%という結果です。

 

東海道を往来する人々によって世に知られるようになった有松絞りは、〈41.鳴海•名物有松絞〉に手拭や着物、反物を商う2軒の店舗が描かれています。古く熱田から二村山(豊明市)へ通じる鎌倉街道沿いの地として栄え、古代•中世の紀行文にも鳴海潟、鳴海浦などと記されています。江戸時代には宿場町として発展し、鳴海と北東隣の有松は万治年間(1658–1660)には様々な絞り染めが行われ、その後有松絞•鳴海絞の産地として全国に名を知られました。天保年間には2階建ての連子窓の店構えを持つほど栄え、有松絞•鳴海絞による商いの大きさが窺い知れます。分析によれば〈41.鳴海•名物有松絞〉の中で商われる衣類の約七割は、藍染を使用した物であるようです。

 

 

分析するために使用された浮世絵は、『浮世絵体系 14 東海道五拾三次』1975年集英社に収録された保永堂版とのことです。あくまでも浮世絵からの分析なので、現実に藍染が当時の生活者の間に浸透している普及率ではありませんが、藍染が日常生活に不可欠な商品となっていたことは窺えます。