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少年兵の手記 no-005 内務班

伊藤洋一郎と出逢って間もなく話したことは、十七才のとき中国大陸で終戦を迎え、南京での捕虜収容所のことだった。わたしは父との確執から異常なほど戦前、戦中、戦後のことに関心をよせて本を読んだり、映画を見たり、人に話を訊いていた。そのとき訊いた話は思いがけないことが多かった。親しくなってからの印象は、戦前の教育を受け戦場を体験した人とは思えない姿だ。ひとつだけ日常で感じられたのは、毎晩机の上を整理し、着たものをきちんと畳み就寝することだった。七十才を過ぎたころから、日記を書き出し、それからこの手記を書きはじめた。どれほど、重く、心のなかで発酵していたのだろうか。

 

no-005

少年兵の手記 無意識の熱情から軍隊生活の不条理な価値観のもと 1944-46

(つづき)

 木造の兵舎は古びていて、中学校の校舎に形も古さも似ていた。中学校の校舎は六十年前に建てられたときいたことがある。兵舎も同じくらい古そうだが校舎よりずっと大きい。兵舎内の構造も後者と似ていた。建物の中央を長い廊下が通り抜けて、廊下の左右は同じ広さの区画に区切られ、廊下の両端と中央の三ヶ所に階段がある。廊下も階段も幅は広い。廊下を中心にして左右を一室として使用するので、部屋の真ん中を通路が横切っている格好になる。廊下と左右の部屋を仕切る壁はないが、壁の替りに銃架が仕切りの役目を果たしている。銃を架けるための銃架は棚になっているので、視野は遮らない。見通しだ。厠-手洗い-と洗面所は一階の渡り廊下でつながった別棟にある。廊下をはさんで左右二つの移住区はまったく同じ造りで、正面に窓、左右の壁沿いに長い棚のような寝床が、上下二段で計八段ある。各段に六・七人分の藁マットが並べてある。マットの頭の上には、壁に沿ってた長い棚があって、個別の収納箱が置いてあり、衣類は重ねて棚に整理して収納箱には私物を納める。下の寝床の床下は共用の靴置き場になっているが仕切りはない。寝床のひとり当たりの専用面積はマットも含めて、畳一畳半くらいでもちろん仕切りはない。収容箱に整理できない私物の所有は一切許されていない。これが内務班とよばれる軍隊生活の基本的ユニットになる。三ヶ月の教育期間中は、巡り合わせた三十名の仲間と住む内務班の空間が、これからの世界のすべてになる。

 

    内務班

 内務斑の㐧一夜は、痛烈な平手打ちの洗礼からはじまった。内務班は、班長。教育兵三名、候補生三十名で構成されている。配属されたのは㐧六小隊㐧二班だが、班長S軍曹は現役の職業軍人で、生え抜きのプロの雰囲気をもった下士官だ。小肥りだが姿勢の良い、引き締まった顔付きにヒゲの剃りあとの青々としてたのが目立つ人だった。穏やかな人柄で殴られた記憶は少ないが、教育兵という殴る専門家が三人も居たのだから、班長自身が手を出す機会の少なかったこともあるだろう。普段の口数も多くはなかったが、黙ってジロリと睨まれるとほんとに恐かった。教育兵三人は軍事訓練や体育など、戸外の訓練には付添って補助を務めるが、主な役目はなんといっても、内務班を中心とした軍隊生活の慣習を教育するためだ。飛行兵としての訓練をうける前に、まず陸軍兵士としての基本的訓練を叩きこむ、そのための教育期間だし、そのために教育兵はいる。N古参上等兵が責任者でM上等兵とA一等兵がいたが、それぞれ年令も外見も性格も違っていた。だが三人に共通していたのは、軍隊組織のなかの内務班という特異な世界にだけ存在する、独特の価値観と非情な厳しさだった。骨身に沁みるという言葉どおり、肉体の痛みをとおして彼らは語りかける。

 

 内務班での最初の夕食は、班長以下全員が顔を揃えてはじまった。順に立って姓名を名乗るだけの簡単な自己紹介のあと、すぐ食事ははじまったが、食事中の会話は一切禁じられている。アルミの食器に箸のあたる音、かみ砕き飲みこむ音だけの沈黙のなかでの食事は、緊張のあまり味もなく何を食べたのか、まるで憶えはない。食事が終ってやっとホッとする。夕食後、寝床の位置が決められ寝具が配られる。教育兵から寝床の作り方を教わり、そのあとこれから毎夜行われる点呼ついての手順と要領を教えられる。                       (つづく)