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少年兵の手記 no-009

伊藤洋一郎と出逢って間もなく話したことは、十七才のとき中国大陸で終戦を迎え、南京での捕虜収容所のことだった。わたしは父との確執から異常なほど戦前、戦中、戦後のことに関心をよせて本を読んだり、映画を見たり、人に話を訊いていた。そのとき訊いた話は思いがけないことが多かった。親しくなってからの印象は、戦前の教育を受け戦場を体験した人とは思えない姿だ。ひとつだけ日常で感じられたのは、毎晩机の上を整理し、着たものをきちんと畳み就寝することだった。七十才を過ぎたころから、日記を書き出し、それからこの手記を書きはじめた。どれほど、重く、心のなかで発酵していたのだろうか。

 

no-009

少年兵の手記  無意識の熱情から軍隊生活の不条理な価値観のもと 1944-46

(つづき)

『県立中学では二年生になると、週一回の軍事教練が正課としてあった。校舎の一角に専用の兵器庫があった。銃が割当てられ保管と手入れに責任をもたらされた。銃は撃針を抜いて発射不能にはなっていたが、本物の三八式歩兵銃で、革のベルトに吊った銃剣と一組みになっている。中学校に配属されたふたりの予備役将校が、教官として交代で訓練を指導していた。ひとりはやや肥満気味の中年の大尉で、この教官には、銃の手入れを怠けていると殴られたことがある。また別の日通学列車の中で、ということは中学生以外の乗客もいる前で、また手ひどく殴られた。同級生が持ち込んだエロ本を回し読みしてふざけていた。たまたまぼくの手元にあるとき運悪く通りかかった教官に見咎められ、立たされて通路で殴られた。痛みより周囲の注目を浴びた屈辱感で体がふるえ、呆然と立ちつくしていた。教官の立去ったあとわけもなくはしゃいでみせたのを憶えている。同じ車輌にいた女学生たちの存在を強く意識しながら、傷ついた少年の自尊心がみせた、精一杯の強がりだったのだろう。二年生といえば十四才だ。配属将校に対して恐れと嫌悪を抱くようになったのは当然のことだが、その嫌悪感が他の軍人にまで向けられることはなかった。

 普段は山村の寺の住職を務めているという若い配属将校の、威勢のいい挑発に心を揺さぶられたこともある。よく透る美声の持ち主で「若人よ、いまこそ祖国のために起つ時がきたのだ」と全校生徒を前に熱弁をふるった。特に熱烈な軍国少年だったわけではないが、その時の、心を躍らせた熱い衝動もウソではなかった。だがやたら暴力的で尊大なもうひとりの将校に対する嫌悪が、熱い衝動に水を差し動揺を与えられたことも間違いはない。それに加えて、幼いころから集団の中にいるのがなぜか苦痛だった。幼稚園のころからすでにぼんやりとその自覚はあった。小学・中学をとおしてこの性格は変らなかった。まったく厄介な性質としかいいようがないのだが、あまり表面には現れないこの孤独癖は、思春期を迎えてさらに強くなり、一層深く自分の中に閉じこもり、やがて反抗心に結びついていった。同級生との間には距離をおき、親友はいなかった。学校の授業はみな厭だったし、教師たちはそれ以上に我慢できなかった。

 やっと三年に進級したものの、もちろん成績はひどいもので、校則違反で謹慎処分はすでに経験ずみのうえ、訓告のためによばれる職員室の常連だった。

 またヘマをやった。支柱を巡回している郊外指導の教員につかまった。中学生には出入りを禁止されている映画館の中で、しかも喫煙の現場を押えられたのだ。二重の校則違反ではもう助かりそうにない。いつ学校から退学の通知が届くかと気の安まらない日を過していた。「息子ふたりを県立中学に通わせるのは大変なんだ。落第などしないで無事卒業して呉れよ」と、折にふれ冗談まじりに、だがとても冗談とも思えない父の言葉が頭に中でチラつく。そんな危ない時期でもあったし大学進学など望めそうもない。さすがに自分の進路に不安を感じはじめ、毎日落着かない気分だった。当時戦局の不利はすでに隠しようもなく、戦力の補充に躍起になっていた国の方針で、中学の学制は五年制から四年制に短縮され、軍隊への門もさらに大きく開かれていた。少年兵の採用には様々な特典を加え、志願の撰択もふえた。陸軍幼年学校は長い伝統を誇る名門だが、成績優秀が条件と知れ渡っていた。まず問題外だ。あと年齢的に適格なのは、海軍予科練習生と陸軍少年飛行兵のどちらかだと考えはじめると、とにかく何かしないではいられない。授業の終わるのを待ち兼ねて、事務室へ募集要項をもらいにいった。渡された資料の中に陸軍特別幹部候補生の新規募集が加わっていた。兵科は航空隊で前例のないほど早い昇級と、合格者には三年終了で中学卒業資格を与えるという、まったく新らしい特典に心をひかれた。溺れるものは笑をも‥‥の打算があったことも否定できない。

 

だが同時に、飛行兵は幼い頃からの憧れてもある。帰りの汽車の中は、ためらいと迷いの一時間だった。十五才の少年にとっては精一杯の、生まれて始めての決断だった。決心がつくと途端に、いままでの悩みが嘘のように消えた。もうためらいはない。両親を説得するのにさほど苦労しなかった。親は自分の子供のことをよく判っている。たいして渋ることなく願書に印を押してくれた。これで退学通知を受取って両親を歎かせないですむという、思惑はもちろん口に出さなかった。ただそのとき、自分の根強い集団嫌悪をすっかり忘れていた』                                                                                       (つづく)