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少年兵の手記 no-011

伊藤洋一郎と出逢って間もなく話したことは、十七才のとき中国大陸で終戦を迎え、南京での捕虜収容所のことだった。わたしは父との確執から異常なほど戦前、戦中、戦後のことに関心をよせて本を読んだり、映画を見たり、人に話を訊いていた。そのとき訊いた話は思いがけないことが多かった。親しくなってからの印象は、戦前の教育を受け戦場を体験した人とは思えない姿だ。ひとつだけ日常で感じられたのは、毎晩机の上を整理し、着たものをきちんと畳み就寝することだった。七十才を過ぎたころから、日記を書き出し、それからこの手記を書きはじめた。どれほど、重く、心のなかで発酵していたのだろうか。

 

no-011

少年兵の手記  無意識の熱情から軍隊生活の不条理な価値観のもと 1944-46

(つづき)

    仲間

 㐧二班の候補生は三十名だが、上は十九才から最年少は一五才までが同じ内務班で生活しているのだ。年令による差別・区分はまったくない。一般の社会でもこの年令差と能力の違いは小さいものでないだろう。殊に少年から青年に移る変化は急激なものだ。一年の違いは体力にも経験にも大きな隔たりがある。中学に入って初めて出会った最上級の五年生など、大人びた顔と、太い首や逞しい腕に圧倒されて、近寄り難い脅威を感じさせられたものだ。教育隊でも同じように年齢差が気になっていた。だが体育や軍事訓練がはじまってみて、体力はとにかく、持久力や気力はまた別の要素なんだと気が付いた。装備を身につけ重い銃を手に、走り、跳び、這いすすむ能力にそれほどの差は感じられなかった。体力に敏捷性や持続力が加われば理想的なのだろうが、それほどの能力を持ち合せた者は例外的な存在にすぎなかった。はじめ年長組の大きな体と見下すような態度に反撥し、競争心をかきたてられたものだが、それもいつか同情に変った。年長の候補生は殴られる回数も多いことに気が付いた。体の大きいのが目立つせいもあるだろうが、殴る側にも遠慮がないといった感じだった。

 十九才といえばもうすぐ徴兵検査の適齢期になる。体に障害のないかぎり、兵役は誰も避けることのできない義務だ。育った環境の違いも、学歴・職業に関係なく一兵卒として軍務に服し、二等兵として苛酷な新兵時代を経験する。自分のことを振り返ってみても、航空隊志願を決心するまでのためらいは、十五才の少年にとっても単純なものではなかった。まして徴兵検査を目前にして、進路の撰択に迷うのは当然のことだ。年高の候補生たちに共通していた虚勢とどこか暗い陰も、わかるような気がする。内務班での生活は年令にも学歴にも関係なく、素裸の自分をさらけ出す他ないのだ。見栄えやごまかしは決して通用しない。二週間も過ぎたころには、歳の差を意識することもなく、訓練中は力を合せ、内務班の追い立てられるような雑務も助け合った。だが無我夢中で過した三ヶ月で、仲間と深く知りあうことも心を開くこともなかった。他の連中のことは知らないが、自分自身を持ちこたえるだけで精一杯だった。素直に自分を語る相手も、時間も、心のゆとりもなかった。お互いに協力はしても仲間を頼ることはなかった。もし頼られたとしても力になってやれなかったと思う。軍隊には庇うという言葉は存在もしない。庇うという意識そのものが反抗と同じ意思表示になる。自分のことは自分で守るしかないのだ。

 内務班生活もまだ日の浅いころ、何がきっかけだったか、教育兵三人に囃したてられたことがあった。三人が声を揃えて唄ったザレ歌の一節が、いやな予感とともに心に残った。

    人の厭がる軍隊に

    志願してくるバカもいる

 

軍歌はたいてい嘘や誇張が多くて格好良すぎるものだが、軍隊内で伝えられているザレ歌には、苦い真実が含まれていた。

                       (つづく)