伊藤洋一郎と出逢って間もなく話したことは、十七才のとき中国大陸で終戦を迎え、南京での捕虜収容所のことだった。わたしは父との確執から異常なほど戦前、戦中、戦後のことに関心をよせて本を読んだり、映画を見たり、人に話を訊いていた。そのとき訊いた話は思いがけないことが多かった。親しくなってからの印象は、戦前の教育を受け戦場を体験した人とは思えない姿だ。ひとつだけ日常で感じられたのは、毎晩机の上を整理し、着たものをきちんと畳み就寝することだった。七十才を過ぎたころから、日記を書き出し、それからこの手記を書きはじめた。どれほど、重く、心のなかで発酵していたのだろうか。
no-012
少年兵の手記 無意識の熱情から軍隊生活の不条理な価値観のもと 1944-46
(つづき)
制裁
三人の教育兵の存在は、内務班のなかに常に危険な緊張感を漂わせていた。それも教育隊の目的のひとつだとしたら、彼らは間違いなく理想的な教育兵だった。三人共若くはなかった。年令に比較して低い階級は職業軍人のものではない。何処からやってきたのか軍歴も知らないし、兵士になる前の職業についても、出身地や家族の有無についても、ついに知る機会はなかった。候補生たちと親しむことはなく、自分を語ることもなかった。その徹底した距離のとり方は見事ともいえる。小学校や中学の教師たちがよく口にした言葉がある。「愛の笞だ」と。教育兵たちはそんな言訳めいたことは決して口にしなかった。怒りを表すのにもっと率直で、非常だった。上段の寝床に腹ばいになって、吾々の挙動を見下ろしている視線は冷やかで、口元に微笑を浮かべることはあっても、その笑みは屈折した暗さを感じさせた。罵声を浴びせるときと殴るとき、彼らは生々としていた。むしろ楽し気に見えたものだ。
堪えられないほど意地の悪さを見せることもある。出身地の訛のせいか、或いは生来舌が短いためか、普段から無口なある候補生は「厠」という言葉がうまく発音できなくて、いつもつらいおもいをしていた。大声をはりあげて「⚪︎⚪︎候補生、厠へ行って参ります。」と叫ぶのは意外と難しいものだ。この申告義務は内務班を一歩でも離れる度に欠かせない。カワヤは舌がもつれてカヤワと逆転したり、カヤワヤにきこえ勝ちになる。誰だった用足しに出るのはギリギリまで我慢してしまう。その揚句口調を真似てからかわれ、容赦なく何度も繰返しやり直しさせられる。体をふるわせて悲痛な表情で立ちつくす、そんな仲間を見ているのは辛かった。声が小さい。聞こえないと何度やり直しさせられたものか。喉の切開手術のあと、小学校の半ばころまでは精一杯力まないと声を出せなかった。いまも大声を出すためには人一倍の努力がいる。首に残る傷跡をみせて懸命に説明した。やっと納得して開放してくれたが、それ以後も相変らず、声が小さいと罵声を浴びた。
教育兵たちもかつては新兵として入隊し、最下級の二等兵として過酷な時代を耐えてきた経験をもっている。二等兵という階級の兵士が、軍隊組織の中で味う屈辱と悲しみを、彼らもよく知っているはずだ。たぶん彼らは組織が生んだ歪みを受継ぎ、そっくり吾々に伝えていたのだろう。わずか三ヶ月の短い経験だが、その歪みは半ば公然と認められた、根の深いものだという印象が強かった。何故なんだと心の中で何度も問いかけてみた。兵士として強くなるためにこんなやり方が、ほんとに必要なんだろうかと。子供のころからの集団嫌悪がまた顔を出してきた。
特別幹部候補生は入隊してすぐ星二つ、一等兵の階級章を付けた。募集にあたっての特例のひとつなのだが、上級者の命令に絶対逆らえない軍隊では、階級差は絶対的な力の差だ。陸軍の兵士の階級は、下は二等兵からはじまって、一等兵、上等兵、兵長、伍長と進級する。伍長以上は単に兵卒でなく下士官とよばれる。さらに昇級すると、軍曹、曹長、准尉、少尉と続くが、准尉以上は将校として扱われ士官とよばれる。つまり、兵、下士官、士官と分れているわけだ。陸軍幼年兵学校や士官学校は士官養成のための学校だと考えればいい。他にも一般の兵士から選ばれて士官候補生になる特別の進路もあるが、数は多くない。特別幹部候補生は下士官養成のあたらしい制度のひとつともいえる。一等兵を出発点にしてその後の昇級もはやい。六ヶ月後に上等兵にすすみ、一年後には兵長になる。一年六ヶ月で伍長に進級して下士官になる。最年少のぼくの場合を例にとれば、十六才六ヶ月で陸軍下士官が誕生する。長い帝国陸軍の歴史のなかでも最年少の下士官だといえる。そんな背景があるので、一般の兵士の道を歩んできた教育兵たちの羨望とねたみが、過剰な暴力の原因だと真顔で話す仲間もいた。呆れてその顔を見直したものだ。事はそれほど単純ではないのだ。
(つづく)