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少年兵の手記 no-014

伊藤洋一郎と出逢って間もなく話したことは、十七才のとき中国大陸で終戦を迎え、南京での捕虜収容所のことだった。わたしは父との確執から異常なほど戦前、戦中、戦後のことに関心をよせて本を読んだり、映画を見たり、人に話を訊いていた。そのとき訊いた話は思いがけないことが多かった。親しくなってからの印象は、戦前の教育を受け戦場を体験した人とは思えない姿だ。ひとつだけ日常で感じられたのは、毎晩机の上を整理し、着たものをきちんと畳み就寝することだった。七十才を過ぎたころから、日記を書き出し、それからこの手記を書きはじめた。どれほど、重く、心のなかで発酵していたのだろうか。

 

no-014

少年兵の手記  無意識の熱情から軍隊生活の不条理な価値観のもと 1944-46

(つづき)

 

『友達から手に入れた鎧通しを鞄に入れて、毎日中学校に通った。背おい鞄に納まりきらず、白木の柄が頭を出していた。名のとおり相手の鎧の上からさしこむので、刃渡り三十センチあり、刀の幅も四センチ近くあるそりの無い肉厚の重い刀だ。

 二年生の夏休み明けから一年上の不良たちにつかまって、執拗につきまとわれ難癖をつけられた。思いあたる理由はない。三日にあげず呼出された挙句、反省の色がないと、柔道場の更衣室で袋叩きにあった。汗臭い柔道衣を頭からかぶせられて、シコタマ殴られた。上級生が下級生を制裁するのは大目にみられ、ほとんど不向きに付される時代だった。鎧通しを持って登校するようになったのは、それからのことだが、脅すつもりではなかった。ただ、もういい加減にしろという気になっていたのも事実だ。所詮子供染みた気取りだったのだろう。それほど大袈裟に考えなかったのは、子供のころから刃物の取扱いに馴れていて、刀は恐くなかったせいだ。鎧通しのためかどうか、不良グループは遠去かった。

 刀剣好きは父親ゆづりで、何度か転居した借家住いにも、いつも父親手造りの床の間が部屋を飾り、床の間の刀架けには日本刀が二振りかかっていた。上段の刀は時々変るのだが、下の段には、戦国時代の雑兵が肩にかついで運んだという、刃渡り四尺、みるからに豪快な大太刀があった。ご自慢の一振りだ。父の刀好きの由来は知らないが、古いセピア色した写真には、軍服姿の馬上の父が腰に軍刀を下げていた。軍隊時代につながるのだろうか。父は田舎町の町工場の二男だが、祖父は風変わりな人で、農機具の発明家を自称し、たしかに発明で一時財を成したらしいが、その後事業に失敗し小さい町工場を経営した。父に連れられていった田舎町の駅近くの工場には、薄暗い作業場に積み上げた機具にまじって、大人の背たけほどもある大きな鳥籠や鉢植えの木がいくつも並んでいた。何ヶ所かある天井の明り採取から差し込む光の中に、色鮮やかな鳥の姿が浮かび上がり、なんとも不思議で妖しい世界だったのが記憶に残っている。

 

 母方の祖父は二十才台の若さで戦死した。佛壇に飾られた写真の祖父は、濃く太い口ヒゲを生やしている。おまえはおじいさん似だとよくいわれていた。祖母の里は農家だが、祖父の実家は蜂須賀家に仕えて三百石取りの家柄だと、母の自慢話はよくきかされた。在郷の本家の屋敷には母に連れられて、小学校も高学年になってからは兄と二人で、夏休みに長期滞在するのが毎年の慣わしだった。土塀をめぐらせた屋敷の庭内には土蔵が二棟あった。われわれ兄弟にとって飽きることのない宝の山があった。古い家具や雑多な品にまじって、雑兵の使った黒い革胴や刀剣などは数も多かったが、なかには鎖帷子や大身の槍、うるし塗りの首桶など珍らしいものもあった。夕食の声がかかるまで、従兄たちと一緒に本身の日本刀を振り回して、チャンバラごっこに夢中だった』                (つづく)