伊藤洋一郎と出逢って間もなく話したことは、十七才のとき中国大陸で終戦を迎え、南京での捕虜収容所のことだった。わたしは父との確執から異常なほど戦前、戦中、戦後のことに関心をよせて本を読んだり、映画を見たり、人に話を訊いていた。そのとき訊いた話は思いがけないことが多かった。親しくなってからの印象は、戦前の教育を受け戦場を体験した人とは思えない姿だ。ひとつだけ日常で感じられたのは、毎晩机の上を整理し、着たものをきちんと畳み就寝することだった。七十才を過ぎたころから、日記を書き出し、それからこの手記を書きはじめた。どれほど、重く、心のなかで発酵していたのだろうか。
no-018
少年兵の手記 無意識の熱情から軍隊生活の不条理な価値観のもと 1944-46
(つづき)
軍事訓練
戸外での訓練は内務班の生活に馴染む間もなく、入隊の翌週からはじまった。一人前の兵士になるための訓練が厳しいものだと、もちろん覚悟はしていたが、一週間の内務班の体験で、軍隊に対する認識の甘さを充分思い知らされた。中学時代の軍事教練の果敢なさもよくわかった。だから訓練の内容について考えないように努めた。考えてもはじまらないし、恐かったのだ。訓練の㐧一日目は体育からはじまった。体育訓練は軍事訓練のための基礎体力作りだと、はっきり説明された。駆け足と柔軟体操で体をほぐし、跳躍と回転運動が中心の訓練だった。戸外の訓練には必ず付添って補助を務める教育兵は、控え目で率直に教官の指図に従って助手を務めていた。彼らも運動は苦手なんだろうかと、奇妙な親近感を覚えたものだ。体育の教官で殴る達人でもある見習士官は、準備運動のあと、いとも無造作に前方と後方の宙返りをやらせた。中学の体育の時間では、ただ羨望の目で眺めていたものだ。鈍足のうえに体力もなく、運動が苦手な口惜しさは身にしみていた。案外ぼくにもやれそうな、そんな気にさせられるほど、細かいことに頓着しない無造作な教え方だった。三日目には全員が回転運動をこなせるようになっていた。次は最大の苦手だった飛び箱もなんとか克服できた。自分の運動能力に自信がもてたのは初めてのことだった。フォルムが悪いとか着地の姿勢がどうのといつも文句も注文も、訓練中いちどもきいた憶えはない。はじめの説明どおり、訓練は基礎体力を作るためだけにあった。必要とされるのは運動選手ではなく、運動選手並みの体力をもつ兵士なのだ。訓練期間中に二度ばかり、自慢の殴りっぷりを披露してくれたが、決してそれだけではない、優れた体育教官として忘れ難い印象を残した人だった。
軍隊の服装についての規律は厳しい。殊に軍事訓練がはじまると、服装、装備の不備は許されなかった。実践を想定しての訓練で装備の欠陥は生命にかかわる。基本的な身支度は、軍服に戦闘帽、ゲートルは行動中にゆるまないように、普段から練習を繰り返す。上衣の上から革のベルトを締め、ベルトには左に銃剣を吊り弾箱も前の左右に付ける。水筒を持つときは、跳ねないように吊りひもをベルトの下にとおす。着剣の指示があれば、銃剣を銃に取付けて白兵戦に備える。行軍、射撃、跳躍、匍匐前進、突撃の練習が延々と繰り返される。完全軍装の指示のあった日は、鉄カブト、背のう、手榴弾、ガスマスク、予備の弾箱が加わって重量も増え、行動にも当然制約をうける。固く巻いた雨衣と飯盆を背のうの外側に取付ける。ガスマスクはケースに収納したまま首にかけて胸に吊す。
戦闘訓練は兵営内の演習場ではなく、五、六キロ離れた旧飛行場の跡地で行われた。すでに発着の機能も失われて永いのだろう。完全に荒地になった広大な敷地は、雑草の繁るにまかせていた。飛行場として使われた名残りの朽ちた小舎と、廃物同様の旧式練習機が数機、機体の傾いたまま放置されている。荒地は起伏に富み、雨のあとは池のような水溜りを作って、野外訓練には理想的だ。溝を飛び越え、窪地に伏せ、雑草をかきわけて匍匐前進する。塹壕にみたてた窪地の仮想敵兵めがけて突撃し、藁人形を刺す。銃剣は特に鋭利なものではないが、銃の重量が加わって威力を発揮する。相手が藁人形とはいえ肩に伝わってくる衝撃は大きい。白兵戦に備えて銃剣術も仕込まれた。 (つづく)