伊藤洋一郎と出逢って間もなく話したことは、十七才のとき中国大陸で終戦を迎え、南京での捕虜収容所のことだった。わたしは父との確執から異常なほど戦前、戦中、戦後のことに関心をよせて本を読んだり、映画を見たり、人に話を訊いていた。そのとき訊いた話は思いがけないことが多かった。親しくなってからの印象は、戦前の教育を受け戦場を体験した人とは思えない姿だ。ひとつだけ日常で感じられたのは、毎晩机の上を整理し、着たものをきちんと畳み就寝することだった。七十才を過ぎたころから、日記を書き出し、それからこの手記を書きはじめた。どれほど、重く、心のなかで発酵していたのだろうか。
no-020
少年兵の手記 無意識の熱情から軍隊生活の不条理な価値観のもと 1944-46
(つづき)
『町内の剣道場に通いはじめたのは、小学校三年の春だった。四才のときの大病以後、いつまでも虚弱だったのを心配した父親は、剣道を習わせるのがいいと考えたのだ。父は自分も若いころ剣道をやっていたこともあって、思い立つとすぐぼくを道場へ連れていった。当時市中に道場の数は多く、各町内に剣道か柔道の道場があった。同じ町内のすぐ近くにあった剣道場は、表通りから露地を入ったすぐの処で、棟長屋の壁を抜いて二軒分を道場に使っていた。道場主は柳生先生といって学問のある人格者と評判の人だった。木彫を家業にしていて店は表通りにあった。道場の稽古は夕方から夜にかけてで、昼間は店先の小座敷で仕事をしている姿が通りからみえた。部屋一杯に散らかった木屑に囲まれた仏像や象が並んでいた。板や作りかけの欄間が壁に立てかけられ、店の中はいつも強い木の香りが漂っていた。うすくなった頭髪に白いヒゲ、ゆっくりした口調で話す穏やかな人だったが、前腕の太さが目を引いていた。見かけによらぬ頑固者と評判する人もいて、それも信頼される理由になっていたようだ。学校から帰って夕食までの一時間、週二回がぼくの稽古日だったが、竹刀を持つことも道具をつけることも許されず、与えられた一本の木刀を使って、一年間は木刀の素振りだけを続けた。他の子供たちが、道具をつけ、、竹刀を振るって打合っている姿を横目でみながら、なぜか、あまり口惜しいと思った記憶もない。体の弱いのを心配した父が、激しい打ち合いを避けるよう頼んだのかもしれない。週二回の稽古日には休まず通いつめた。小学校卒業まで続けた道場通いも、中学入学を機にやめることになった。家の事情で市内の中学校でなく、汽車で一時間ほどもかかる郡部の中学に入学したせいで、通学に時間をとられたのだ。
中学では武道が正課としてあった。引っ込み思案で目立たない生徒だったのだが、一年生の三学期に正月の道場開きで四人抜きをした。五人目は自分でも驚いて気を散らし、つまらない失敗をして失格になった。全校の剣道部全員が参加した催しだったから、一躍注目を浴びた。稽古をはじめた一年間飽きずに木刀を振っていたことが、同級生たちとは何処か違ったものを身に着けた理由なのだと、子供なりに気が付いてうれしかった。父は若い頃使っていたという古い革胴を探し出して、剣道具店に補修に出してくれた。厚い皮を何枚も貼り合わせた胴は、刀もはじき返しそうなほど頑丈だが、黒塗りの正面に金の紋が入った飛びきりハデなもので、あまりの目立ちように閉口しながら、でも中学では最後までその胴を使っていた。
剣道とは関係ないことだが目立ったものは他にもあった。母親はすこし変ったところのある人で、中学の三年間を通して柳行李の弁当箱を持たされた。大きく不格好で、そのうえ飯の湿気が染みて黒ずんでいた。アルミの弁当箱が普通だった級中で、いかにも古色蒼然として目立った。同級生に珍らしがられたり笑われたりで散々な目に合った。みっともなくて厭だと随分抵抗したのだが、風通しがいいからご飯が痛まなくてこれが良いのだとふだんに似ず頑なとしてききいれず、ついに三年間変えてもらえなかった。自慢の武士の血統が変な形で顔を出したのだが、ついにこちらが諦めた。やがてその息子が鎧通しを鞄に入れて登校するようになろうとは、母にも予想できなかったろう。
中学三年、十五才の誕生日にお前も元服の年だと父が刀を買ってくれた。同じ町内の刀剣商の店で刀を選び拵えを注文し「兼光とはいかないが、掘り出し物だった」とうれし気に手渡してくれた。脇差しなのだろう小振りの刀で、刃渡り一尺三寸、柄は渋い濃紺で鉄つばに黒の鞘だった。関の兼⚪︎の銘が入っていた。』
(つづく)