伊藤洋一郎と出逢って間もなく話したことは、十七才のとき中国大陸で終戦を迎え、南京での捕虜収容所のことだった。わたしは父との確執から異常なほど戦前、戦中、戦後のことに関心をよせて本を読んだり、映画を見たり、人に話を訊いていた。そのとき訊いた話は思いがけないことが多かった。親しくなってからの印象は、戦前の教育を受け戦場を体験した人とは思えない姿だ。ひとつだけ日常で感じられたのは、毎晩机の上を整理し、着たものをきちんと畳み就寝することだった。七十才を過ぎたころから、日記を書き出し、それからこの手記を書きはじめた。どれほど、重く、心のなかで発酵していたのだろうか。
no-021
少年兵の手記 無意識の熱情から軍隊生活の不条理な価値観のもと 1944-46
(つづき)
旅立ち
全身の力をこめて藁人形の腹に銃剣を突き立てる。実弾を発射した時の鋭く重い銃声と肩を打つ衝撃 飯盆炊飯の焦げた匂い 雨の中の匍匐前進 洗濯ものを抱えて廊下を走る ガスマスクを着けた早駆けの苦しさ 食事当番の思案顔 内務班の隅で病欠がひとり泣いている。消灯のあと窓から差し込む冷たい月の光と影 また誰かの殴られる音 辛辣な嘲笑にも堪え身の縮むような恐怖も味わった。教育隊の三ヶ月で、一体何を身につけたのか、また何を失ったのだろうか。
三ヶ月の訓練を終え千名近い候補生は、散りぢりに、全国各地の飛行基地に配属されていった。一班と二班の候補生六十余名は、七月上旬松山を出発して、次の訓練地三重県明野に向けて旅立った。
明野飛行学校 昭和十九年七月
突き刺すような鋭い金属音と、腹にこたえる重い響きが重なりあって、体の中を戦慄が駆け抜けた。隼戦闘隊の本拠地明野飛行基地は、期待をはるかに超えて刺激的だった。はじめて目にした飛行基地の活気に息を詰めて見入った。すぐ目の前に銀色に輝く隼がいるのだ。一機、二機、三機、胴体の鮮やかな日の丸の赤が、残像のように目に焼きついた。
明野飛行学校には昼過ぎに着いた。宿舎にあてられた広い部屋に寝台が並んでいた。内務班と違って、開放的で明るい部屋だ。荷物を置いて外に整列する。飛行服姿の精悍な将校が簡単な歓迎の言葉と明野飛行学校の歴史を、これも簡潔に話してくれた。隼の本拠地、加藤隼戦闘隊の名はあまりにも有名だ。いまその飛行場に立っているのだ。全員が興奮で顔を輝かせていた。そのあと松山から吾々を引率してきた指揮官の訓示で、配属先はこの本校ではなく、同じ鈴鹿山脈の一角にある鈴鹿分校だと知らされて、期待が大きくふくらんだあとだけに、余計ショックは強かった。本校からは十キロほどの距離だが、鉄道で迂回しなければならないので、列車で約一時間の工程だという。気落ちしてガックリしたが、夕食までの自由時間は基地の見学を許可されているときいて、やはり好奇心を抑え切れず、解散のあとすぐ見学に出掛けた。広い飛行場の手前に大きな格納庫が何棟か続き、すこし間をおいて向うにも何棟かみえる。格納庫の前の舗装された広場には、機首を横向きに隼が数機並び、向き合った列の向うにもまだ何列か重なっている。脚立や取外したカバーが点在した間を縫うように、象の鼻のような装置の車が走っていた。隼の翼の上にも人がいる。轟音をたて機体をふるわせている戦闘機の操縦席にしがみついて、足を泳がせながら中を覗きこんでいる。作業衣が千切れそうにはためいていた。飛行服にまじって民間人らしい作業服姿が目につく。エンジン音の低まった合間に人声もきこえたが、尖った声でも荒い口調でもないようだ。なぜかホッとする。周辺一帯に感じられるのは、松山では味わったことのない活気と開放感だった。少年の夢みた本物の航空隊が目の前にあった。
(つづく)