江 戸時代には庶民にも観賞用として親しまれた牡丹は、中国では随の時代から栽培され、奈良時代に薬用として渡来したと云われています。『本草和名』によると牡丹は「深見草(ふかみぐさ)」と呼ばれ、一重咲きで皮を乾燥させ「牡丹皮」という生薬だとも云われます。『蜻蛉日記』『枕草子』『栄華物語』のなかに牡丹の名は見られ、唐の時代に観賞用の花として人気が高くなった牡丹が、平安時代には貴族の間で鑑賞されたようです。中世には豪華な牡丹の花が描かれるようになり、衣装にも牡丹模様が用いられ、鎧の縅にも牡丹の色が見られるようになります。色彩名が現れるのは重色目として平安末期ころで、重色は表うすき蘇芳、裏白とあります。牡丹の品種改良が進むにつれ色、形が鮮やかな紅色になり、重ねの色も、表白•裏紅梅、表淡蘇芳•裏濃赤色など花の色を倣って鮮やかな色も加わり数種あります。
紅がかった紫色の「紅紫(こうし)」は『太平記』などでも色名が見られ、鎌倉時代の武士の間でも牡丹のような華やかな色が色彩を極めた色として君臨しました。謡曲『石橋』のなかでは、獅子は〈百獣の王〉と牡丹は〈百華の王〉と取り合わされ、武家にも「富貴の花」として愛用されたようです。
牡丹の花の色を倣い華やかな赤紫は藍と紅で染めたようですが、江戸時代の染色本や雛形本には見られず、紫同様禁色だったのかも知れません。「赤紫」と呼ばれた律令時代の朝服は高貴な色とされていました。紅紫も梅紫も似せ紫のように、下染めに藍であさぎに染め、茜•蘇芳•紅を重ねて染めたと考えられています。江戸中期以降この染法により類似の色相の名称が数多く創案され、町人たちに愛用されます。
文久2年(1862)に京都の紫染業者•井筒屋忠助が合成染料モーブの輸入を始め、使用されるようになると彩度の高い華やかな牡丹色や梅紫が流行色になりました。1856年にイギリスのウィリアム•パーキンがアニリンからモーブを世界で初めて作り出したことで、高級な染色に手が出なかった人々を魅了して流行色を生み出すことになります。
参考:「日本の伝統色」長崎盛輝 京都書院