深淵なる蒼い時間


伊藤洋一郎(1929-2004)

徳島県徳島市に生まれる。

旧制中学を中退して陸軍航空隊へ。特攻隊要員として中国大陸で終戦を迎える。

 

以来徒党を組まないことと、定着しないことを心掛けて生きている。エゴイスティックな雑誌「自由工房」の編集長という役柄は、とても気に入っている。

           ―1993.1 執筆時の自己紹介―

 

 

 

 

    

徳島へ移住してから出会った伊藤洋一郎と16年間共に活動してました。

写真の撮り方を習い、文書を書いて伝える大切さも自由という葉の重さも教わりました。

自由に生き方を選べなかった時代を生き、運よく命を繋ぐことできた敗戦後でも生きずらい環境に贖い、自由に生き続けようと努力した人です。

私の藍染表現の全てに、伊藤の影響があります。
残りの時間を”伊藤洋一郎生誕100年記念展”の実現を夢に力をいでいきたいと思います。


  伊藤洋一郎の理《RI》vol.011


『自由工房』を応援してくださったコンテンポラリー・マガジン『The Earth』を発行していた忽那修徳氏から巻頭の「ジ・アース/トーク」を依頼され執筆しました。忽那氏の愛媛での取組みに感心し、出会いを大変喜んでいました。

 

テーマ 《最近出会った意外に面白かった本は?》 

 数年前に蔵書を売りはらってから、以来本を買うという習慣もなくしてしまった。安価でかさばらないという理由で、ごくたまに文庫本を探すことはあるが、読書のすべては市立図書館のご厄介になっている。図書館の在庫のなかから選ぶことについて、ときに欲求不満がないでもないが、それでも、偏っている自分の嗜好と違ったところで、意外と面白い本にぶつかることもあって、この味もまた捨て難いものだ。読書の嗜好が身辺の変化に左右されるのは当然のことだろうが、つい先日終った市長選挙に深くかかわっていたこともあって、そうなると現金なもので、ふだんより政治色の濃い本を集中的に読んでいたようだ。一月末から二月にかけて借り出したものをあげてみると、「コモン・センス」トーマス・ペイン(これは友人から借りたもの)。「死の途上にて」ホセ・ルイス・マルティン・ビヒル。「ソルジェニーツィンの眼」木村浩。「タイタニックに何かが」R・J・サーリング。「芸術と政治をめぐる対話」ミヒャエル・エンデ ー ヨーゼフ・ボイス。「雪が燃えるように」レジス・ドブレ。「蘇れ、わがロシアよ」ソルジェニーツィン。他に、カルロス・フェンテス、ファン・ルルフォといったところだが、ラテン・アメリカ系が多いのは単に結果でしかない。

 選ぶ指向がはっきりしていたから、思いがけずといった感じは少ないが、なかで「芸術と政治をめぐる対話」は意表をついた組合せが面白くて、借り出し期間を延長して四週間手元にあった。過激で破天荒な現代芸術の旗手ボイスと、いささか保守的で誠実・慎重な人柄の作家エンデとの対話を記録したものだが、精神の自由について、あるいは、芸術と政治について語り合う二人の、まったくかみ合わない、それでいてあくまでも真摯な発言がスリリングでもあり、見事だった。

 「蘇れ、わがロシアよ」は、現代ロシア文学を代表する作家ソルジェニーツィンが、祖国ロシア復興の熱い想いをこめた論文集だが、文学というものの存在理由と、作家の姿勢について、あらためて考えさせられる一冊でもある。

1993年3月25日  The Earth ジ・アースVOL.26 ジ・アース/トーク 


  伊藤洋一郎の理《RI》vol.012


『自由工房』を応援してくださったコンテンポラリー・マガジン『The Earth』を発行していた忽那修徳氏から巻頭の「ジ・アース/トーク」を依頼され執筆しました。忽那氏の愛媛での取組みに感心し、出会いを大変喜んでいました。

 

テーマ 《最近「このまま続けているとヤバイ」と思ったことは?》

 「人間死んだ気になれば何だってやれっるさ」どうにもありふれたフレーズだが、なぜかしぶとく頭の隅にこびりついていて、時々口のなかでつぶやいてみることがあった。死を秤にかけるほどのどれほどの苦境があったのか、過ぎ去った痛みはもう量りようもないのだが、なにしろ、死そのものについての恐怖感が人一倍強かったのだから、これはまったく意味のない言葉で、ほとんど役にはたたなかった。少年期から異常なはど死を意識していた。深夜いわれのない恐怖と虚脱感にのみこまれて、身体を縮め、息をつめて耐えていた記憶を鮮明に残っている。いまもすっかり消え去ったわけではないが、あのどうしようもない、心細いうつろな感触は、次第に間が遠くなり、うすれていった。(きょう、ママンが死んだ-)で始まる、カミュの「異邦人」を初めて読んだのは、戦後しばらくしてのことだから、たぶん二十五、六才の頃だったろう。二十世紀ヨ-ロッパの暗さの反映ともいわれる、人間の不条理を鋭く描いたこの小説との出会いは、まったく衝撃的だった。ママンの死、アラビア人の死、死刑囚ムルソーと続くこの悲劇的な物語は、処刑を待つムルソ-が、はじめて、世界の優しい無関心に、心をひらいて終るのだが、かつて、そしてその後も、小説の主人公にこれほどの一体感を抱いたことはないし、またこれほど確かな人間の実在を信じさせられたこともない。以来「異邦人」は僕にとって心の指標であり、同時に、仕事の方向を選ぶための大切な基盤だとも考えてきた。それはまた、いやおうなく青年期の死の認識を形づくる力ともなったようだ。

 去年かけがえのない友人を二人も失った。今年になって、五月には母の死を看取り、六月には身近な人の死が相ついだ。しばらく遠ざかっていた死の意識は、こんな風にして、またあらたな表情で現われてきたわけだが、いまそのきびしい相貌を前にして、うろたえている。カミュは「異邦人」の自序のなかで書いている。「生活を混乱させないために、われわれは毎日嘘をつく」と。「嘘をつくという意味は、無いことをいうだけでなく、あること以上のことをいったり、感じる以上のことをいったりすることだ」とも。死の恐怖より、生きることに馴れた怖さがある。このままじゃ、ヤバイ。

1993年7月25日 The Earth ジ・アースVOL.28 ジ・アース/トーク  


  伊藤洋一郎の理《RI》vol.013


                                     昭和25〜29年(1950-54)ころの絵と伊藤洋一郎。


  伊藤洋一郎の理《RI》vol.014


1985年に創刊した地域雑誌『テラコッタ』の協力を依頼され、写真と編集で参加しました。後年私と『自由工房』を発行するに至ったのは、創刊号で終わってしまったこの時の再挑戦だった。許容範囲が狭く他者にも自分にも厳しい人で、地域雑誌を作ることに不適格な人だったと今は思う。(私も)-1985年9月15日発行 テラコッタ 創刊号-

 

1980年ごろ?伊藤は表題の異端の人=正木茂(1910–80日展会友•東光会会員)の追悼文として徳島新聞社へ掲載依頼をしたそうです。掲載されることが叶わなかった文章を何時か、何処かで発表したかったのでしょうか。1959年生まれの私は正木氏が東京へ上京された頃生まれました。アルバムの表紙に幼少の私の似顔絵を描いてくれたご縁があります。父とも交流があり、家によく来ていたそうです。母がこの文章を読んで正木さんの事というより、伊藤さん自身の思いが強いのでは?と感想を述べていました。

 



       異端の人 

 

 画廊の一隅で正木茂さんの絵に出会ってから一年半が過ぎた。踊り子を描いた八〇号大の油絵で、正木さんの作品を見る初めての機会でもあった。正木さんには東京で二度会っている。同郷の人達の集まりに誘われて銀座裏の小さな店の二階で顔を合わせたことがある。痩躯の目立つ、飾らない笑顔と、ぼくより年配だったというおぼろげな感触の他には確かな記憶もない。もう一度あっているはずなのだが、いつ何処でのことだったか思い出せないでいる。それでも折々の消息をわずかに知ることが会ったのは、正木さんと仲の良かった漫画家のコン・ヒロシをとおしてのことで、そのコンさんと会うのもせいぜい年に一度くらい、時として二・三年の空白もあったから、およそ消息といえるほどのものではない。だから上京以前はもちろん、東京での暮らしぶりについて語る自信もない。

 正木さんが終生描き続けたのは、阿波踊りという、いささか風変わりなモチーフだった。かって日本画家だったことがこの選択に影響を与えているのかもしれない。これまで興味のもてなかったのは、そのモチーフのせいだったと、正直にいっておくしかない。しかし現代の絵画にとって、モチーフはすでに制作上の出発点に過ぎないという考え方もある。絵を前にしてほとんど違和感はうけなかった。暗い画面のなかに、具象的な形態を残したまま踊り子はなかば背景のなかに溶け込んでいる。

 

 マチェールに惹かれて

 

 昭和三十四年、上京当時五十歳に近かった正木さんにとって、その時代のすでに定着されていた様式の他に頼るものはなかったろうと思われる。そのアカデミックな様式と、極めて日常的な嗜好との結びつきの上に、正木さんの絵のスタイルが決められたようだ。重ねていうが、絵画にとって出発点が問題なのではない。いつもその変貌の過程で成熟してくるものがある。踊り子のフォルムは、おだやかで筆づかいにも気負いは感じられない。黄土色とよぶのがふさわしい、いくらか重苦しい性格をもつ色彩を多く使いながら、絵具の層の重なりが地味な艶のないマチェールとなって、ふしぎな透明感をみせている。口当たりの良い装飾的な絵に食傷気味の眼に思いがけず新鮮だった。

 マチェール ––材料・材質から転じて美術用語としては、技法的に画面の審美性ともかかわる意味合いをもって使用され、材質から、絵具層の厚み、タッチを生かすことができるし、塗り方で多様に変化のある効果をあげることができる。––– 以上は辞典からの抜粋だが、つまり材料としての絵具の役割は広く、さらに深いところで画家と絵具との間にきわめて個性的な交流が生まれる。その意味でマチェールとは、化粧された肌というより、むしろ画家の生理そのものに近いといえるだろう。体質的に吾々になじみにくいといわれる油絵具を素材とするうえで、このマチェールの獲得は決して小さいものではない。

 正木さんの絵のマチェールからは感覚的なひらめきとか計算された効果といった感じはうけない。ひたすら一途な絵具の重なりの跡が見えるだけである。それだけに一層強靱でもある。趣味的な偏りをみせる自分の絵に強い不満を抱いていた時期でもあって、この絵からうけた複雑な動機は一年半を過ぎたいまも消えることがない。これまで未知の人に等しかった正木さんに、あらためて関心を寄せるようになった発端でもある。一枚の絵のなかにみたマチェールに魅かれ、それを一人の画家の生存の軌跡に結びつけようとするのは、すくなからぬ過ちを犯すことになるのかもしれないが。

 

 画家として生きることの哀歌

 

   絵の「詩的な観念」と、文学的な内容を混同してはならない。––– といったのはたしかベン・ニコルソンだが、例えば、粗野なタッチを作者の情熱の表れとよぶような短絡的な過ちを吾々はしばしば犯しやすい。そんな危険を充分承知してはいても、なお、画家と彼の作品との間に横たわる断ち難いある不可知なちからの存在を否定することはない。

 いつの時代にも、画家に対して向けられるある種の不信感や、また逆に、ささやかな信頼感でさえ、いわれのない作り話しにすぎないことが多い。また画家自身が日常生活での順応性や、超俗、清貧といった寓話的なものまで含めて、易々としてその誤解に従い、時として意識的に誇張することのあるのも否定できない。しかし素直な眼をもってみればわかることだ。およそ貧困などというものは誰にとっても悲しいものであることに変わりはない。ただそのにがい悲しみを価値あるものにするためには、人間の悲哀に対する共感として自らのうちに育てるしかない。

 すべての人達と同じように、画家もまた生活を維持するために社会に依存している。

 そして、社会的な地位や経済的な優劣とは無縁であるという約束のうえに、独自な地位を占めてもいる。これは異端としか呼びようのない特異な位置でもある。この環境で生きてゆくためには、いくらかの勇気と平衡感覚を必要とするものだ。戸惑いは不安を生み、時に怒りをぶちまけ、やがて孤独になりがちである。そんな暗い気分に襲われた時には、かってユイスマンの望んだような<銘々に一日の食料があてがわれ、孤独な真の努力によって頭角を現そうとする以外に、ほとんど何の野心もないような生活>を夢見ることもある。それでも、いま生きているこの社会との契約を解除することはできない。正木さんについて考え始めたとき、まず胸に浮かんだのはこんな様々な感慨だった。

 初めに書いたとおり、正木さんについて知ることは少ない。画家としての足跡について知ることは少ない。画家としての足跡についても、東光会の会員だったといった程度の知識しかない。自分の作品が認められ、世に受け入れられることを望まない画家はひとりとしていないだろうし、そのための機会も場所も不可欠なものだ。しかしまた、現在の「画壇」における栄誉なるものは、いつか社会的な地位や経済的な優劣のなかにのみ込まれ、変形されて、無意味な寓話をさらに付け加えるに過ぎないようにも思える。常に、大きな矛盾の流れに巻き込まれることは避けられないとしても、この避けがたい矛盾はまた、ひそかな抵抗の回流となって、彼の作品にあらたな生気をよみがえらせる。そんな経験に勇気づけられて、画家は彼自身の選んだ道を歩み続けることができる。ぼくが魅かれたのは一枚の絵にすぎないが、画家正木茂を知るために、これほど信じられるものは他にない。

 

 限りなき憧憬

 

 正木さんの人柄についても多くは知らないが、酒を愛し、聞く者を思わずニヤリとさせるような逸話の持ち主だときく。そんな断片的なことから、決して柔弱でない、むしろ不遜な心をもつ人を想像してしまうのだが、これとて単なる憶測でしかない。それよりも、東京での二十余年の歳月をひたすら阿波踊りをかくことで生き抜いた、かたくなともみえる姿勢のなかに、画家として生活するために堪えねばならなかったであろう幾多の痛みを思わないではいられない。悦楽と悲しみの、絶望とやすらぎの交錯するなかで彼を支えたのは、もはや栄光ではなく、ただ不安な誠実しかなかったような気がする。

 現代社会のなかで、誠実に絵を描き続けるということは、それほどたやすいことではない。それは、必ずしも社会に誠実に生きることを意味するものでもない。誠実であることが、画家として欠くことの出来ない条件だと信じてはいても、さて一体、何者に対して誠実でなければならないのかと問いかけてみると、意外にはっきりとしないものだ。そんな時の誠実という言葉には異端の響きさえする。そして、異端者にはいつも抵抗の匂いがつきまとっている。

 正木さんの、どこか不器用さを感じさせる生き方や、屈託のない笑顔の奥にある、ある激しさがぼくをひきつける。これは限りない憧憬でもある。あるいは彼の姿のなかにぼく自身の希望と絶望を夢みているに過ぎないとしても、その重なった部分に強く魅かれているとすれば、それもしかたのない事だというしかない。

 正木さんが自ら意識することはなかったとしても、社会における異端者というこの苛酷な道を、恐れず、哀感をこめて歩き続けた人でもあったのだろう。

 <芸術のもっとも本質的な源泉である真の感情は、人類の快楽と、絶望のなかに存在する>といったベン・シャーンの言葉に同意するなら、その道はまた、いつも身近にその存在を予感しながら容易に手にふれることのない、吾々が芸術とよんでいるあの至上の門への道程でもあるはずだ。

 五十五年夏、東京で、正木さんは七十年の生涯を終えた。棺は、暖かい眼差しをもった友人達の肩に運ばれていったという。

 <彼は簡素な暮らしをした。彼は長くて苦しい断末魔をもった。餘苦しい時、彼は「看病してもらえない人だって沢山いるのだ」と言った。>これは、画家ジョルジュ・ルオ-が、敬愛する作家ユイスマンを語った言葉である。

 1985年9月15日発行 テラコッタ 創刊号 


  伊藤洋一郎の理《RI》vol.015


「2002年8月. 73才になって、はじめて日記を書く」[2002.8.14-9.18] 

8/24(土)  くもり   

スカイドアが出版したインタビュ-集「アート ワーズ」

現代美術の巨匠たち ジーン・シーゲル編

また読みかえしてみる.。アンディ・ウォーホル、ヨーゼフ・ボイス、アムンゼム・キーファー、ジュリアン・シュナーベル、等々。

何度読んでもなかなか刺激的で面白い。今回はことにキーファーのインタビューにひかれるものがあった。インタビュア ドナルド・カスビット

K. 美という考え方をどう理解してらよいかは、ぼくにとってはいつもむつかしいのです。ぼくは一枚の絵を5年かけて描いたことがあります。つまるところ「美しい」ということで終ってしまっては苦労のしがいがありませんね。

D. きみにとってアーティストとは、思想家ということになるのだろうか。

K. アーティストには3つの要素があります。意思と、時間、そして空間です。アメリカではアーティストとはオブジェを作る人だと考えられているようです。アートは決してオブジェではありません。アートとは受取る方法なのです。 

 

とても気に入った言葉  マイク・ビドロのインタビューの中から

ひとりきりでいる時、ぼくには昔ながらの立派な意味で自分をア-ティストと呼ぶ勇気はない。ジオット、ティツィアーノ、レンブラント、それからゴヤは偉大な画家だった。ぼくは単に自分の生きた時代を理解し、同じ時代を生きる人々の愚かさ、自惚れ、貪欲さをできるだけなくそうとした、大衆相手のエンタティナーにすぎない。ぼくの作品はおそらく見かけ以上の痛みをともなった苦しい告白なのだが。それでも誠実というとりえはあるはずだ。––パブロ・ピカソの言葉––  


  伊藤洋一郎の理《RI》vol.016

1962年ごろ東京へ移住する。はっきりわかるのは東京への憧れや希望ではないということ。勤務先の立木写真館と問題が生じたことがきっかけであったことは、多くを語らない伊藤の話しから理解した。37歳という中途半端な年齢での上京を決心した理由は、写真でなんとか生活できると思ったのだそうだ。伊藤の生き方は、世間一般の常識や現状を何も考えず行動するようだ。東京での新たな出発は思いがけないことの連続だったようだ。

 

その後1983年まで東京で写真技術を糧に生活するのだが、作品として写真を殆ど残していない。2度ほど展覧会をしているにもかかわらず。一緒に自由工房を作ることになったとき、改めて訊ねたら「写真は大好きであるけど、僕は画家だ」と訳のわからないことをいわれた。少ししてから東京で写真を預けていたラボラトリーから、リバーサルフィルムが御用済みで戻ってきた。捨てられないように私が保管していたものが少し残っている。



Ito Yoichiro:Photograph-001

1974年開業:新宿住友ビルディング



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  伊藤洋一郎の理《RI》vol.017



抽象絵画の冒険とロマン 

 

 

 先史時代の抽象感覚

 

 「自分の直面しているこの眼に見える世界が、ふと謎にみちたものとして眼にうつる時、芸術活動がはじまる。芸術作品の創造とともに、人間は肉体的生存のためでなく、精神的生存のために自然との闘争を開始しだす」これは、十九世紀の哲学者コンラト・フィドラのことばです。抽象形態にたいする人類の欲求はすでに先史時代に始まっていました。洞窟絵画にみられる感覚的な線描をはじめとして、古代においても具象と抽象の流れはほぼ同時に現れています。イスラムの幾何学模様や、バイキングのバロック模様、また古代ギリシャやアフリカの黒人芸術などのなかに、抽象的形態を見出すことができます。

 これらの現象を、単純に現代の抽象作品と結びつけることは出来ないとしても、いわゆる抽象芸術から応用美術に至るまで、当時の芸術家たちが、再現の正確さや効果にとらわれることなく、リズムや比例の美といった、現代絵画と同質の抽象に対する感受性をもっていたのは疑いのないことです。

 さらに、時間的に遠く離れている異なった時代、交流があったとは考えられない国と国の間にも、明らかな普遍性をもって、同一の手段による抽象表現をみることが出来ます。風土による環境の違いや、また民族固有の生活用具、宗教的儀式のための祭具などに残された抽象形態や、装飾的様式は、私達の祖先がもっていた美的感性や本能的ともいえる抽象行為のあかしでもあります。先史時代から一種の直観にみちびかれたこの抽象への憧憬は、そののちもあらゆる時代を通じて美術の底流として、受けつがれてきました。

 

 放浪の冒険者

 

 現代抽象絵画の起源をセザンヌに求めるのが定説になっていますが、十九世紀末、押し寄せる物質文明の波、疲弊した自然主義的アカデミズムといった、社会的、文化的な背景のなかで、より創造的でありたいと望んだ前衛画家のあいだには、新鮮な形態にたいするあらたな理想が芽生えていました。それまでの逸話的絵画の束縛から解放された画家たちは、その民族的性格や個人的気質によってそれぞれの表現形式を求め、さらには共鳴しあって、フォビスム、表現主義、キュビスムなどの、様々な新しい波が次々とうまれました。これらすべての運動に共通している、形態の追求と、精神性の自立という目標のなかには、明らかに、来るべき純粋抽象への傾斜をみることができます。ピカソやブラックに代表されるキュビスム=立体派は、デフォルメーション、コラージュといった表現形式によって幾何学的な魅力ある形態を創り出しました。キュビスム運動は約十年間におよぶ意義深い役割を終えて、メンバーはそれぞれ独自の道を歩み始めましたが当時成長過程にあった抽象画家たちに深い影響を与えました。

 自由なヴィジョンと、新しい美学上の冒険を求めて、手さぐりで歩み始めたこの冒険者たちは、保守的な批評家たちの根強い中傷と嘲笑のなかで、抽象というただ一点において強く結びついていったのです。

 ロシア、ドイツ、北欧などに台頭した多様な抽象運動の波はヨーッロッパに拡がり、やがてパリに集まってくることになりますが、偉大な抽象画家のひとりとして知られるワシリー・カンディンスキーの場合も、その道程は決して平坦なものではありませんでした。ロシア革命後、社会主義リアリズムの確立にともなって抽象的美学が否定されることになり、モスクワ美術学校の職を辞したカンディンスキーはミュンヘンに移り、ファイニンガー、クレー、モオリ・ナギらと共にバウハウスの創立に参加しました。新しい美術教育の理念をかかげて、建築、工業デザインをはじめ、造型美術のあらゆる分野にわたる優れた足跡を残しました。その十四年に及ぶ活動も、政権を獲得したナチスの弾圧によって、一九三三年、バウハウスは閉鎖されました。ソヴィエトから逃れ、さらにドイツを追われたカンディンスキーをはじめとして、ヨロッパ各地からパリに集まった放浪の抽象画家たちは、ナチスによるパリ占領によって、またもパリを離れることになります。一部の画家はアメリカに渡り、当時黎明期にあったアメリカの前衛美術に強い刺激を与えました。しかし、パリ解放と共に、放浪者たちは再びフランスに帰ってきました。その頃の様子を、ミッシェル・ラゴンは著書『抽象芸術の冒険』のなかで次の様に書いています。「第二次世界大戦中、一九四〇年から四五年にかけて、ヨーロッパの優れた画家たちが数多くアメリカに逃れた。彼らはアメリカで熱狂的歓迎をうけ、彼らを喜んで受け入れようとする蒐集家や画廊を見出した。それにもかかわらず、フランスが解放されるや直ちに、公的には彼らに何もしなかったパリに戻ってきた。年老いた貧しいパリに」と。

 

 なお厳しい受難の時

 

 キュビスムがパリで全盛であった頃、抽象美術の流れはまだパリから遠く離れていましたが、亡命と放浪を繰り返す苛酷な運命のなかで、すでに多くの仲間を失っていました。ある者は沈黙し、或いは無名のうちに去り、第一次大戦ではフランツ・マルク、アウグスト・マッケなどの有能な旗手を失いました。一九四〇年にパウル・クレーはスイスで、四四年にはカンディンスキー、モンドリアンと、抽象美術の偉大な創始者たちが相次いで世を去りました。苦難を乗り超えて解放直後のパリに戻った亡命画家たちにも、なお数年は厳しい受難の時が続いたのです。

 フランス解放直後に、パリの画廊でひらかれたカンディンスキーの遺作展は、わずかの作品が紹介されたに過ぎず、ほとんど注目されることもなかったようです。パウル・クレーもまたフランスでは知られていませんでした。一九四七年になって、パリはやっと、この異邦人の手になる新しい芸術を認めるようになりました。やがて、少しづつエコール・ド・パリのなかに浸み込んでいった抽象美術は、ほぼ半世紀にわたる永い苦闘の末、完全な開花をみることができたのです。

 抽象絵画が、一般に新しいもののように受取られているのには、幾つかの理由があるとしても、この新しい美学が、フランスにおいて理解され受入れられるまでに、三十年という歳月を要したことが最大の原因であろうといわれています。一九一八年以前に、たとえ極めて少数の個人的成果であるにしても、すでにある完成度に達していた抽象作品は、ほとんど三十年ものあいだ一般社会に知られることはなかったのです。各地に分散していたという不利な条件や、追放、逃亡という苛酷な時代的背景を考慮したとしても、その報われることの余りにも遅すぎたことは否めません。それらを考える時、彼らのみせた、ほとんど宗教的ともいえる忍耐力と誠実さに深い感動をおぼえるのです。単に美学上の新しい発見であるというにとどまらず、抽象という理念のもつ、またその理念を信じた画家たちの、きわめて人間的な側面を示している様に思われます。

 

 熱い抽象の時代

 

 十九世紀の末期、パリで発達した印象派が、当時の権威主義に対しての反抗と、旧い体制からの独立という芸術革命であったように、第一次大戦後の不安と焦燥のなかでドイツに発生した表現主義は、理想主義に対する激しい抵抗感から生まれました。抽象運動もまた、変革期を迎えたヨロッパ文明の流れのなかで、強い抵抗の姿勢を示しながら、より深く世界と人間をつなぐための、造型言語の模索という方向をたどることになりました。激しい感情とともに、何よりも精神の優位を信じた抽象芸術の性格は、現代絵画の本質そのものに哲学的基盤と論理性を与えましたが、その柔軟さも失うことはありませんでした。プリミティブ芸術のなかに神秘的な力を見出し、驚異的な飛躍をとげた科学の様々な分野からも大きな刺激をうけ、それらの混沌のなかから、ある秩序を形づくるための真摯な努力が続けられました。

 一九五〇年代には、パリを始め世界各地で抽象絵画が全盛をきわめ、まさに「抽象の時代」とよぶことができます。殊に若いアメリカ美術界においては、ヨーロッパの伝統を乗り超えようとする欲求とも結びついて、現代の不安や絶望のドラマチックな表現としての抽象作品が、一挙に噴出しました。デ・クーニング、ヴォルス、マチュー、ポロックらによって、アクション・ペインティングや、アンフォルメル作品などが数多く発表され、その直接的で新鮮な表現によって世界の注目をあつめました。しかし、「熱い抽象」とよばれたこの抽象絵画の流れも、そのあまりにも否定的な性格と激しさゆえに、五十年代に至ってすでに究極に達したと評されることになりました。六十年代に入っては、ダダの復活や、複製文明の落し子といわれるポップ・アートの出現、また純粋な客観的な写実形式をもったネオ・リアリズムの台頭など、多様な前衛美術が、抽象からの断絶の姿勢をみせて次々と誕生しました。抽象芸術にたいする反発と批判を出発点とした前衛美術は、それぞれ異なった傾向をみせながら、あらたな自然との関係の樹立や、音楽への接近といった多くの課題を含んで現代美術を形づくっています。

 

 緊張と動乱の時代に

 

 「現今、合理的なモニュメントがあるとすれば、それは何らか否定的なモニュメントだということになる−−この緊張と動乱の時代には、美術家も決して優しいロマン主義者ではあり得ないし、ある種の実存主義的心情を抱かざるを得ない」と、ハト・リドは書いています。しかし、すでに九十年代を迎えた今日では、「決して優しい実存主義者ではあり得ない」というべきかもしれません。

 「否定の芸術は、また、もっとも燃えたった情熱的な肯定の芸術である」という言葉どおり、かつて燃え上がった抽象の火は、限りない自由への憧憬と、反抗の魂によってたしかに受けつがれてゆくことだと思います。

 

 参考文献 抽象芸術 マルセル・ブリヨン

      抽象芸術の冒険 ミッシェル・ラゴン

      若い画家への手紙 ハーバート・リード

 

自由工房 1990. July  No.1  


  伊藤洋一郎の理《RI》vol.018


「2002年8月. 73才になって、はじめて日記を書く」[2002.8.14-9.18] 

8/25(日)  快晴   

窓を全部あけはなしてクラプトンをきく。

アンプラクドアコースティック・クラプトン  CD.

友達がもって来てくれてもう6−7年になるだろうか。数少ないお気に入りのCDで、月に一度はきいている。緑と太陽の会でセットしてもらったステレオもだいぶくたびれてきた。また中古の良い組合せのセットを杉浦君に頼まなきゃならない。杉浦君にしばらく会ってない。ほんとにかけがえのない良い友人だ。やはり時々会わなきゃダメだな。

50年ごろだったか、チェット・ベーカー、シングルのドナツ盤から始まったジャズへの傾倒ももう50年になる。殊に東京時代のジャズにまつわる想い出は数多い。もう手元に残っていないけれど、買いあさり手ばなしをくり返したLPレコードの数々は、オソマキの青春の忘れがたい宝物だった。そんなせいで数少ない写真展のタイトルも 都市ブルース・ブルースブルースなどだった。同郷のマンガ家コン・ヒロシに偶然出合ったのは、あの忘れ難い有楽町のジャズ喫茶「ママ」だったし、同じころよく一緒になった面識はなかったけれど古今亭志ん朝のジャズに埋没していた暗い横顔はいまも忘れない。明大前のマイルスのマスターと仲間たち、最後の日本公演になった厚生年金でのサッチモの舞台、新宿「ピットイン」での大ソウドウなど。

無心にただひたすら絵を描いていた20才代にも、写真でくらしていた東京での20年間にも、いつもジャズがまわりにあった。励まされ、傷心をいやしてくれたジャズ。

青年期から中年、いま老年期に入ってもなおはかりしれない感動と励ましを音楽と読書からあたえられている。それだけに、音楽と文学から得てきたたくさんの憧憬や熱、感動や希望は絵画そのものの存在を支えてきた大きな  *でもある。

運良く、まれな僥倖にめぐまれれば、音楽や文学には表現できない絵画そのものの存在にゆきあえるかもしれない。

音楽が音楽として、文学が文学として自立できている何かを、絵画のなかにも見つけるかとが 。 

 

 

文中  *言葉を探していたと思われる 

 


  伊藤洋一郎の理《RI》vol.019


「2002年8月. 73才になって、はじめて日記を書く」[2002.8.14-9.18] 

8/19(月) 晴

今週の貸出し コレリ大尉のマンドリン  ルイ・ド・ベルニエール

       カポーティ        ジェラルド・クラーク

       天怒  上下       チェン・ファン  陳 放

 

カポーティ670頁 約15時間、食事以外休まず読みおわる。例によって、あちこちナナメ読みはしてしまうのだが. ちかごろ眼がつかれる。 


  伊藤洋一郎の理《RI》vol.020


「2002年8月. 73才になって、はじめて日記を書く」[2002.8.14-9.18] 

8/20(火) 晴

 天の怒り 上下

汚染汚職取締局なんて役所があるのが、いかにも中国といった感じ。なんといっても汚職については長い伝統と歴史をもつ国だ。民族の体質なんて変らないものだと考えさせられる。あるいは人類の歴史なんて、といいたいところだが、やはり中国と日本では、その自浄作用という点で違っているのだろうか。

中国では、常に、指導層がフハイし、民衆が正すという歴史をくり返してきたとあるが、日本ではどうだろう。

 

それにしてもいまも現実に、著者の安全のため、近く国外に亡命の必要があるなんていうのはやはりコワイ国だ。